西村直己
日本の政治家 (1905-1980)
西村 直己(にしむら なおみ、1905年10月8日[1] - 1980年7月28日[1])は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員。
西村 直己 にしむら なおみ | |
---|---|
| |
生年月日 | 1905年10月8日 |
出生地 | 日本・東京府 |
没年月日 | 1980年7月28日(74歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
所属政党 |
(民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
第13・27代 防衛庁長官 | |
内閣 |
第2次池田内閣 第3次佐藤改造内閣 |
在任期間 |
1960年12月8日 - 1961年7月18日 1971年8月2日 - 1971年12月3日 |
第39代 農林大臣 | |
内閣 | 第2次佐藤第1次改造内閣 |
在任期間 | 1968年2月3日 - 1968年11月30日 |
選挙区 | 静岡県第1区 |
当選回数 | 10回 |
在任期間 | 1949年1月24日 - 1976年12月9日 |
その他の職歴 | |
第15代 自由民主党政務調査会長 (総裁:佐藤栄作) (1966年 - 1967年) |
来歴・人物
編集東京府出身。東京府立第四中学校、[要出典]第一高等学校文科甲類[2]、1929年東京帝国大学政治学科卒業[1]後、内務省に入省。静岡県警察部長[1]、鈴木貫太郎内閣総理大臣秘書官[3]、警視庁保安部長、同警務部長、官選の高知県知事[1]、内事局第二局長、内務省調査局長などを経て、1949年の衆議院議員選挙に静岡1区(中選挙区)から出馬し初当選。連続10回当選。衆議院建設委員会委員長、予算委員会委員長を経て1960年第2次池田内閣の防衛庁長官として初入閣。
自由民主党政務調査会長、農林大臣など要職を歴任した後、1971年に全日空機雫石衝突事故で増原惠吉防衛庁長官が引責辞任した後を受けて入閣したが、記者会見で「国連は田舎の信用組合みたいなもの」「中共が国連入ってくればますます悪くなるかもしれない」「モルジブは土人国だ。あんなのだって票を持っている。」と発言したため「国連軽視・発展途上国蔑視」との批判を浴び、辞任に追い込まれた[4]。
著書
編集- 『モスクワの異風客』産業経済新聞社 1954年。
脚注
編集
議会 | ||
---|---|---|
先代 小川半次 |
衆議院予算委員長 1960年 |
次代 船田中 |
先代 薩摩雄次 |
衆議院建設委員長 1957年 - 1958年 |
次代 堀川恭平 |
公職 | ||
先代 江﨑真澄 増原惠吉 |
防衛庁長官 第13代:1960年 - 1961年 第27代:1971年 |
次代 藤枝泉介 江﨑真澄 |
先代 倉石忠雄 |
農林大臣 第39代:1968年 |
次代 長谷川四郎 |
党職 | ||
先代 水田三喜男 |
自由民主党政務調査会長 第15代:1966年 - 1967年 |
次代 大平正芳 |
官職 | ||
先代 吉富滋 |
高知県知事 官選第42代:1946年 - 1947年 |
次代 廃止 |