西村兼文

1832-1896, 幕末の京都西本願寺侍臣

西村 兼文(にしむら かねふみ、天保3年7月22日1832年8月17日) - 明治29年(1896年11月1日[1])は、幕末の京都西本願寺門主侍臣。尊皇攘夷派、宝物鑑定家[1]

来歴

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生い立ち

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西本願寺侍臣西村房義の次男として生まれ、父と同じく西本願寺に仕える。

西国にて勤皇の志士達と交流していたが、慶応元年(1865年)閏5月に京都へ帰ってきてみると、西本願寺は勤皇志士達の敵とも言える新選組の屯所とされてしまっていた。

新選組隊士達の中では尊皇攘夷思想の強い高台寺党(御陵衛士)・伊東甲子太郎らと交誼を結び、戊辰戦争後の明治22年(1889年)、『新撰組始末記』(壬生浪士始末記とも)を著し、維新史に関する書をたびたび発表した。

奈良県庁官吏として明治政府に出仕して宝物取調に従事[1][2]。書跡・古文書、美術・工芸にいたるまで何でも審定のできる人物であったと評価されていた[2][3][4][5]

奈良にて死去。享年65。法名は釋兼文[6]、墓所は西大谷墓地。

人物

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  • 尊皇攘夷派であり、著書『新撰組始末記』では尊皇側の立場から記載されており、山南敬助などは好意的に書かれている。
  • 宝物の鑑定能力は高く評価されているのだが、手癖が悪く[2]、古文書・一枚摺りの古版等の偽造をおこなったこともあるとされ[4][7][8][9]、西村著『本朝画人伝補遺』を出版するにあたって、その解題で編纂者が注意を喚起するしだいとなっている[5]。もっとも西村の所業は私利私欲によるものではないと擁護する雑誌記事も残されている[6]

著書

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単著、編さん

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以下は発行年・発行者不明[6][8]

  • 『名誉百人伝』。 
  • 『英烈遺墨帖』。 
  • 『古経題跋』。 
  • 『物價表 自大化至明治十八年』。 
  • 『古印譜』。 
  • 『殉難前草』。 
  • 『好古漫録』。 
  • 『歴代古版譜』。 

群書一覽續篇、續群書一覽

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以下は書写本

伯爵田中光顕が秘蔵していた上記書写版を1冊にまとめたもの[10]

出典・参考文献

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出典

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  1. ^ a b c “西村兼文君の逝去”. 骨董雑誌 (骨董雑誌社) 2. (1896-12). https://dl.ndl.go.jp/pid/1506253/1/28. 
  2. ^ a b c 川瀬一馬 (1978-05). 文化庁. ed. “古版木の残存”. 文化庁月報 (ぎょうせい) 5 (116): 10 - 11. https://dl.ndl.go.jp/pid/2802973/1/6. 
  3. ^ 川瀬『古活字版之研究 本編』、680頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1120471/1/352 
  4. ^ a b 川瀬『日本書誌学之研究』1943年、50 - 51頁https://dl.ndl.go.jp/pid/3440493/1/66 
  5. ^ a b 本朝画人伝補遺 解題』1918年https://dl.ndl.go.jp/pid/1229599/1/4 
  6. ^ a b c 西京繁人 (1913-09). “補西村兼文逸話(庚戌巻五参照)”. 集古会誌 (集古会) 壬子 (2): 2 - 3. https://dl.ndl.go.jp/pid/1589016/1/3. 
  7. ^ 朝倉亀三日本古刻書史』1909年、20 - 21頁https://dl.ndl.go.jp/pid/897221/1/23 
  8. ^ a b 東京閑人 (1911-07). “西村兼文氏逸話”. 集古会誌 (集古会) 庚戌 (5): 2 - 4. https://dl.ndl.go.jp/pid/1589009/1/4. 
  9. ^ 川瀬『五山版の研究 上巻』日本古書籍商協会、1970年、250 - 251頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12234829/1/139 
  10. ^ 西村兼文 編, 入田整三 校訂『続群書一覧の刊行に就きて』日用書房〈続群書一覧 増補(再版)〉、1927年https://dl.ndl.go.jp/pid/1147307/1/6 
  11. ^ 西村兼文 編, 入田整三 校訂『西村兼文 緒言』〈続群書一覧 増補(再版)〉、1頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1147307/1/3 
  12. ^ 川瀬『日本書誌学之研究』、79頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1122823/1/78 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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