西心寺
西心寺(さいしんじ)は、愛知県安城市川島町西屋敷16にある真宗大谷派の寺院。
西心寺 | |
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所在地 | 愛知県安城市川島町西屋敷16-16 |
位置 | 北緯34度55分38.9秒 東経137度06分20.9秒 / 北緯34.927472度 東経137.105806度座標: 北緯34度55分38.9秒 東経137度06分20.9秒 / 北緯34.927472度 東経137.105806度 |
山号 | 川嶋山 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | 大谷派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 元和元年(1615年) |
文化財 | 本堂、山門(登録有形文化財) |
歴史
編集創建
編集矢作川右岸(西岸)に位置する[3]。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には、徳川家康方で近藤善四祐正と子の近藤善次祐基も出陣し、近藤善四祐正は討ち死にした[4]。近藤善次祐基も討ち取られる寸前だったが、蓮如上人が書いた名号が切れたものの自身は無事だった[4]。
近藤善次祐基は家康から屋敷地7畝15歩を除地として与えられると[4]、仏門に入って祐念に改め[5]、父の法名を寺号として西心寺を建立した[4]。延宝5年(1677年)には本山から本尊となる阿弥陀如来を下付された[5]。
近世
編集享和3年(1803年)には手水鉢を、文化2年(1805年)には梵鐘を鋳造した[5]。天保6年(1835年)には本堂を建てた[1]。大工棟梁は老規が岡田五左衛門尉源之昌(8代目岡田五左衛門)、當規が岡田米治郎源宜堯 (9代目岡田五左衛門)である[6]。願主は東本願寺の再建などで財を成した材木商の太田佐兵衛である[6]。この際には近隣の各村から地築の支援を受け、後の安城村・福釜村・和泉村の範囲からも石・米の寄付を受けている[7]。
近代
編集1873年(明治6年)9月28日、村高村・河野村・坂戸村・川島村の4村を学区とする川島学校が創立されると、西心寺の庫裏が校舎に充てられた[8]。1868年(明治元年)には書院を、1891年(明治24年)には倉庫を、1903年(明治36年)には水屋と山門を建て、1916年(大正5年)には庫裏を改築した[9]。山門は西大平の杉浦家が棟梁を務めた[10]。
現代
編集2022年(令和4年)2月17日、本堂と山門が登録有形文化財に登録された[1][2]。岡田五左衛門が棟梁を務めた現存する寺院本堂としては、豊川市豊川町の三明寺本堂、西尾市上町の正念寺本堂、西尾市吉良町の海蔵寺本堂などがある[10]。
文化財
編集市指定文化財
編集- 絹本著色方便法身阿弥陀如来尊像
登録有形文化財
編集- 本堂
- 山門
脚注
編集- ^ a b c d e f g h 西心寺本堂 文化遺産オンライン
- ^ a b c d e f g 西心寺山門 文化遺産オンライン
- ^ a b c 西心寺本堂、山門について 愛知県
- ^ a b c d 石碑「西心寺の沿革」西心寺、1997年7月12日
- ^ a b c 『桜井村史』桜井村、1943年、pp.352-353
- ^ a b c d e f 『安城市歴史的建造物NEWS』安城市教育委員会、2024年3月、8号
- ^ 安城市史編さん委員会『安城市史』安城市、1971年、p.674
- ^ 『桜井村史』桜井村、1943年、p.532
- ^ 『桜井村史』桜井村、1943年、pp.577-578
- ^ a b 愛知県安城市 西心寺(真宗大谷派)本堂改修工事 魚津社寺工務店
- ^ a b 『安城市文化財図録』安城市教育委員会、1983年、p.20
- ^ 安城市史編さん委員会『安城市史』安城市、1971年、pp.232-233
参考文献
編集- 『桜井村史』桜井村、1943年
- 安城市史編さん委員会『安城市史』安城市、1971年
- 『安城市文化財図録』安城市教育委員会、1983年
- 『安城の寺院建築 安城市文化財調査報告書 第6集』安城市教育委員会、2016年
- 『安城市歴史的建造物NEWS』安城市教育委員会、2024年3月、8号
外部リンク
編集- 西心寺本堂 文化遺産オンライン
- 西心寺山門 文化遺産オンライン
- 西心寺本堂、山門について 愛知県