衣笠映画聯盟(きぬがさえいがれんめい、新字体表記:衣笠映画連盟)は、かつて存在した日本の映画制作プロダクションである。1926年(大正15年)に衣笠貞之助監督が松竹下加茂撮影所内に設立し、松竹キネマの配給で時代劇映画を製作した。ここから林長二郎(後の長谷川一夫)が映画デビューし、また円谷英二が在籍していた。1928年(昭和3年)に衣笠が渡欧したことで聯盟は解消した。

略歴

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1926年(大正15年)、衣笠貞之助は小説家の横光利一川端康成らとともに新感覚派映画聯盟を設立し、『狂つた一頁』を製作することになった。同年4月に報知新聞に「新感覚派映画聯盟生まる」の記事が掲載されたが、この記事を見た松竹キネマ白井信太郎から犬塚稔を通じて、たまたま空いていた下加茂撮影所を使ってみないかとの申し出があり、衣笠とスタッフは同撮影所で『狂つた一頁』を撮影した[1][2]。同作のスタッフには撮影技師の杉山公平、彼の撮影助手の円谷英一(後の円谷英二)、監督助手の小石栄一などがいた。

同年6月に『狂つた一頁』が完成し、衣笠は上京して上映館確保のために奔走したが、なかなか上映先を見つけることはできなかった[3][4]。その間スタッフは京都の合宿で食いつなぎして、衣笠からの吉報を待つという状況が続き、無一文では次の映画製作にかかれない状況となっていた[3]。そこへ松竹の大谷竹次郎社長から毎月2本時代劇映画を作るという話が持ち込まれた[3]。この頃の松竹は現代劇は人気があったが、時代劇は一向にパッとせず、そこで時代劇製作に注力しようとしていた[5]。衣笠はスタッフを率いて松竹と契約を結び、衣笠映画聯盟を発足した[1]。初めは蒲田撮影所で製作するという話だったが、30数人のスタッフを京都から呼び寄せなくてはならないため、下加茂撮影所で製作することになった[3]

衣笠映画聯盟の第1作は『照る日くもる日』(1926年)で[6]、次いで『麒麟児』(1926年)などを松竹から受注製作するが、観客を呼べる時代劇スターが不在のままだった。そこで翌1927年(昭和2年)に松竹本社から新人俳優の林長丸を預かり、林長二郎と改名して『稚児の剣法』でデビューした[6]。松竹の大規模な宣伝もあり、林は多数の女性ファンを獲得するほどの人気スターとなった。この頃、新たに脚本部に三村伸太郎冬島泰三、監督部に小石栄一山崎藤江、俳優部に千早晶子浦波須磨子が加わった[6]

しかし、衣笠映画聯盟は松竹と大ざっぱな契約を結んだこともあり、毎月赤字が続き、製作費はつねに予算額を超えてしまい、松竹への立替金が嵩むばかりだった[3][4]。そこで意欲的な時代劇の『十字路』(1928年)を製作した。1928年(昭和3年)6月、衣笠は同作のフィルムを携えて渡欧し、衣笠映画聯盟は解消となった[6]

フィルモグラフィ

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全作製作[7]。特筆以外の全作監督は衣笠貞之助、特筆以外の配給は松竹キネマである[7]

1926年
1927年
1928年

その他

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  • フクロウをシンボルマークとし、大・小道具の係は皆、フクロウを描いた半纏を着、銀紙を貼った照明板の裏にもフクロウの絵がついていた。このフクロウの絵は、少人数だった衣笠映画聯盟が夜間撮影の連続だったことにちなんでいる[8]

脚注

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  1. ^ a b 今村 1986, p. 98
  2. ^ 衣笠 1977, p. 67
  3. ^ a b c d e 衣笠 1977, pp. 84–85
  4. ^ a b 四方田 2016, p. 202
  5. ^ 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』朝日新聞社、1976年。 
  6. ^ a b c d 田中 1976, pp. 68–71
  7. ^ a b 衣笠貞之助、日本映画データベース、2010年3月10日閲覧。
  8. ^ 『舞台、銀幕六十年』(長谷川一夫、日本経済新聞社刊、昭和48年)

参考文献

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  • 今村昌平 編『無声映画の完成――講座日本映画②』岩波書店、1986年1月。ISBN 978-4000102520 
  • 衣笠貞之助『わが映画の青春――日本映画史の一側面』中央公論社〈中公新書489〉、1977年12月。ISBN 978-4121004895 
  • 田中純一郎日本映画発達史2――無声からトーキーへ中公文庫、1976年1月。ISBN 978-4122002968 
  • 四方田犬彦『署名はカリガリ――大正時代の映画と前衛主義』新潮社、2016年11月。ISBN 978-4-10-367109-1 

外部リンク

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