蝉丸
人物
編集生涯
編集史料上の初見は天暦5年(951年)の『後撰和歌集』で、「逢(相)坂の関に庵室を作りて住み侍りけるに、行きかふ人を見て」と詞書があり、「これやこの 行くも帰るもわかれつつ 知るも知らぬも あふさかの関」という和歌が詠まれている(『後撰和歌集』雑一・1089番)[1][2][3]。一般的にはこの歌が『小倉百人一首』に収録されていることで知られている[1](ただし『小倉百人一首』(蝉丸・10番)や『源平盛衰記』(45・蝉丸・232番)では三句目が異なり「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」となっている[2])。
出自伝承の振れ幅が大きく、物乞いとするものがある一方、醍醐天皇の第四皇子とするものなどもある[1]。また、宇多天皇の皇子敦実親王の雑色、光孝天皇の皇子[4][5]とするものもある。
盲であり琵琶の名手という伝承[6][5]から、仁明天皇の第四宮人康親王と同一人物という説もある[5]。『平家物語』巻十「海道下り」では、醍醐天皇の第四宮として山科の四宮河原に住んだとあり、平家を語る琵琶法師・盲僧琵琶の職祖とされている[5]。
一方、『古本説話集』上二四「蝉丸事」では逢坂関で往来の人に物乞いして生活しており琴なども弾いたという[3]。『俊頼髄脳』でもほぼ同様に琵琶を弾いて行き交う人に物を乞いながら生活していたという[3]。
なお、歌論書『兼載雑談』などでは和歌に行き交う人を見る様子があることから盲目であったとする説を否定し、盲目というのは世のしがらみを捨てた意味であるとする[1]。関清水蝉丸宮の縁起類には時期に若干の相違はあるが開眼譚を含むものが多い[1]。
生没年は不詳である[1]。没年に関して『寺門伝記補録』や『関清水神社由緒書』は、天慶9年(946年)9月24日に逢坂山の麓で亡くなり関明神に合祀されたとしている[1]。一般には旧暦5月24日[7]もしくはグレゴリオ暦の6月24日(月遅れ)が「蝉丸忌」とされている。
和歌
編集蝉丸の伝承と逸話
編集伝承
編集『今昔物語集』によれば逢坂の関に庵をむすんだという[5]。具体的には『今昔物語集』巻二十四「源博雅朝臣行会坂盲許語第二十三」に「会坂ノ関ニ一人ノ盲、庵ヲ造リ住ケリ、名ヲ蝉丸トソ云ケル」とあり、源博雅が逢坂の関に住む蝉丸が琵琶の名人であると聞き通ったという[1][3]。
今昔物語集の影響を受けたとされる『江談抄』第三「博雅三位習琵琶事」では、蝉丸の名は出てこないが、逢坂山に住む琵琶の名手が秘曲「流泉啄木」を一子相伝しており、これを聞いた源博雅が3年間通いつづけて秘伝を相伝してもらったという[1]。
芸能
編集蝉丸に関する史跡
編集備考
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i 斉藤 利彦「逢坂山と関清水蝉丸宮:ささら説経と蝉丸信仰を中心に」『歴史学部論集』第3巻、佛教大学歴史学部、2013年3月1日、23-41頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 中島 和歌子「『世継物語』博雅少年琵琶秘曲伝習説話をめぐって :その諸要素の解明と説話の教材化の試み」『札幌国語研究』第1巻、北海道教育大学、1996年、33-48頁。
- ^ a b c d 山田 雄司「蝉丸説話の形成」『日本文化研究 : 筑波大学大学院博士課程日本文化研究学際カリキュラム紀要』第5巻、1994年2月1日、37-50頁。
- ^ 『当道拾要録』
- ^ a b c d e 兵藤 2009, pp. 104–108.
- ^ 『関蝉丸神社文書』1986
- ^ “【御由緒】”. 関蝉丸神社. 2023年10月25日閲覧。
- ^ 『源氏烏帽子折・蝉丸』近松門左衛門著、武蔵屋叢書閣、1896年
- ^ 蝉丸さんの百人一首 米子市のホームページ
- ^ あんの秀子、末次由紀『ちはやと覚える百人一首』講談社、2011年、188頁。ISBN 978-4-06-377391-0。
参考文献
編集- 兵藤裕巳『琵琶法師:<異界>を語る人びと』岩波書店〈岩波新書〉、2009年。ISBN 978-4-00-431184-3。