藻璧門院但馬
藻璧門院但馬[1](そうへきもんいんのたじま、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の女流歌人。父は『新古今和歌集』時代の和歌所開闔(かいこう)でもある勅撰歌人の源家長[注釈 1]、母はやはり勅撰歌人の後鳥羽院下野[注釈 2]。
なお、二字目の「ヘキ」は「完璧」の「璧」(下のつくりが「玉」)が正しい字だが、「岸壁」の「壁」(下のつくりが「土」)を用いた「藻壁門院但馬」とした文献も古より非常に多く見られるため注意を要する[注釈 3]。
来歴
編集後堀河天皇の中宮で国母となった九条竴子(後の藻璧門院)に出仕。但馬守だった父・家長にちなんで但馬と呼ばれる。母と共に九条家歌壇で活躍。後嵯峨院歌壇でも百首歌作者に選ばれた。『新勅撰和歌集』以降の勅撰集や歌合などに作品を残している。
作品
編集勅撰集
編集歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
千載和歌集 | 新古今和歌集 | 新勅撰和歌集 | 中宮但馬 | 4 | ||||
続後撰和歌集 | 藻璧門院但馬 | 3 | 続古今和歌集 | 続拾遺和歌集 | 藻璧門院但馬 | 2 | ||
新後撰和歌集 | 玉葉和歌集 | 続千載和歌集 | 藻璧門院但馬 | 1 | ||||
続後拾遺和歌集 | 藻璧門院但馬 | 1 | 風雅和歌集 | 藻璧門院但馬 | 2 | 新千載和歌集 | 藻璧門院但馬 | 1 |
新拾遺和歌集 | 藻璧門院但馬 | 2 | 新後拾遺和歌集 | 新続古今和歌集 | 藻璧門院但馬 | 1[注釈 4] |
定数歌・歌合
編集名称 | 時期 | 作者名表記 | 備考 |
---|---|---|---|
石清水若宮歌合 | 1232年(寛喜4年)3月25日 | 女房但馬 | 藤原隆祐と組合い負1持2 |
洞院摂政家百首 | 1232年(貞永元年) | 但馬 | |
光明峰寺入道摂政家十首歌合 | 1232年(貞永元年)7月 | 中宮但馬 | 藤原頼氏と組合い勝7負3 |
入道前摂政恋十首歌合 | 1232年(貞永元年) | ||
宝治百首 | 1248年(宝治2年) | 藻璧門院但馬 |
私家集
編集伝存しない。
脚注
編集注釈
編集- ^ 『新古今和歌集』に3首、『新勅撰和歌集』に8首、『続後撰和歌集』に7首、『続古今和歌集』に2首、その他の勅撰集に計15首、都合35首が勅撰集に入集している。
- ^ 『新古今和歌集』に2首、『新勅撰和歌集』に2首、『続後撰和歌集』に6首、『続古今和歌集』に6首、その他の勅撰集に計14首、都合30首が勅撰集に入集している。
- ^ 但馬が女房として仕えたことからその女房名の一部として用いられるようになった女院・藻璧門院の院号は、平安京大内裏の外郭十二門のひとつ藻壁門(西中御門)の名称に由来するものだが、藻が絡みついた土壁を想わせるその字面は不気味で女院の院号としては不吉ではないかということで、あえて「壁」を別字ながら同音でしかも形もよく似た「璧」(意味は「宝石」)に差し替えたという経緯がある。したがって門の名称としては「藻壁門」正しく、女院の院号としては「藻璧門院」が正しい。そしてその女院に仕える女房が女院の院号を自らの通称に冠することで独自の呼称とした女房名も、やはり「藻璧門院但馬」が正しい。しかし、時代と筆写を重ねるごとに、草書体ではその判別が難しい「璧」と「壁」の二字は混同され、その結果数多くの権威ある文献においてすら藻璧門院但馬の名は藻壁門院但馬と記されて今日に伝わることになった。なお、「藻壁」か「藻璧」かについては、そもそもその女院の院号定めのときから相当の混乱と混同があったことが藤原定家の日記『明月記』の中にも記されている(天福元年四月廿五日條)。
→ 詳細は「九条竴子」項および「藻璧門院少将」項を参照。 - ^ 『新続古今和歌集』に藻璧門院但馬の作として選入されている2首のうち、「正治二年石清水若宮歌合に」との詞書のある 巻第六 冬歌 00719 は、実際には別人の皇太后宮但馬の作とみなされている。ただし、これを藻璧門院但馬の作と見なして、正治2年(1200年)の時点で歌合に出詠していることと、父・家長がその当時31歳と推定されていることから、藻璧門院但馬の出生を文治3–4年(1187–88年)頃と推定する説もある(安井(参考文献))。
出典
編集- ^ 「藻璧門院但馬」、デジタル版日本人名大辞典+Plus、コトバンク(2016年2月12日閲覧)
- ^ 『続千載和歌集』 巻第五 秋歌下 00472
参考文献
編集- 早稲田大学新古今研究会 「覚勝(西園寺公経)「洞院摂政家百首」注釈」 『研究と資料』 (42),5-23 1999-2000年
- 安井久善 『宝治二年院百首とその研究』 1971年、笠間書院