藤立 啓一(ふじたて けいいち、1938年12月29日[1] - 2002年6月17日[3])は、日本医師馬主

ふじたて けいいち

藤立 啓一
生誕 1938年12月29日[1]
日本の旗 日本 大阪府大阪市浪速区[2]
死没 (2002-06-17) 2002年6月17日(63歳没)[3]
国籍 日本の旗 日本
職業 医師馬主
肩書き 医療法人藤仁会 藤立病院院長
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大阪府大阪市旭区で藤仁会藤立病院を経営した傍ら、日本ボクシングコミッション(JBC)のコミッションドクターも務めた。

経歴

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1938年大阪市浪速区の魚問屋に生まれる[2]京都工芸繊維大学に進み、学業の傍らで家業を手伝っていたが、「医師になって欲しい」という父親の強い要望を容れて、3年次に大阪医科大学へ編入[2]。大学卒業後は勤務医として過ごしたのち、1969年診療所を開業した[2]1976年に「藤立病院」を創立[4]1980年からは医療法人化し「藤仁会藤立病院」となった[4]。JBCのコミッションドクターに指定されてからは、関西地方で行われる世界戦などでの診察を担当した[2]。また、1995年に発生した阪神・淡路大震災では兵庫県立御影高校の避難所で診察を行った[2]

2002年6月17日悪性リンパ腫のため死去[3]。63歳没。

馬主活動

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藤立の勝負服

35歳の時に中央競馬の馬主資格を取得[2]勝負服の柄は桃、茶襷。冠名には、病院の法人名「藤仁会」に由来する[2]「トウジン」、布施明の楽曲「シクラメンのかほり」にジョン・レノンの名前を掛け合わせた[2]「シクレノン」を用いた。

主な所有馬

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グレード制重賞優勝馬

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その他の所有馬

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脚注

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注釈

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  1. ^ いずれもオープン特別競走。のちに重賞に昇格。

出典

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  1. ^ a b 『現代人物事典』出身校別 全国版 1671頁
  2. ^ a b c d e f g h i 『優駿』2000年4月号、pp.108-111
  3. ^ a b c 藤立啓一氏死去/ボクシング・コミッション医師”. 四国新聞社 (2002年6月18日). 2023年3月10日閲覧。
  4. ^ a b 病院概要”. 藤立病院 (2012年9月24日). 2013年4月18日閲覧。

参考文献

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  • 『現代人物事典』出身校別 全国版(サン・データ・システム、1982年1月)
  • 優駿』2000年4月号(日本中央競馬会、2000年3月)
    • 山本徹美「頑張るお父さんの星 - ミスタートウジンが駆け抜けた日々」