藤田晴子
日本のピアニスト、音楽評論家、法学者
藤田 晴子(ふじた はるこ、1918年2月25日 - 2001年10月20日)は日本のピアニスト、音楽評論家、法学者。選挙制度審議会委員。武満徹「2つのレント」の世界初演者[1]。
藤田 晴子 | |
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藤田晴子とその師レオ・シロタ | |
基本情報 | |
出生名 |
藤田 晴子 (ふじた はるこ) |
生誕 | 1918年2月25日 |
出身地 |
日本・東京府 (現:東京都) |
死没 | 2001年10月20日(83歳没) |
職業 |
ピアニスト 音楽評論家 法学者 |
担当楽器 | ピアノ |
レーベル | コロムビア、ビクター |
経歴
編集弁護士の家庭に生まれ、5歳のとき一家で渡独、6年間ライプツィヒで育つ。10歳の夏に日本に戻り、神戸市の遠矢小学校5年編入。その後、東京本郷の誠之小学校に転校。東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高等学校)在学中からレオ・シロタにピアノを師事。
東京府立第一高等女学校高等科在学中、1936年、第5回日本音楽コンクールピアノ部門第2位入賞。同校英文科を首席卒業後、1938年4月、第6回日本音楽コンクールでピアノ部門1位入賞[2]。以後、ヴァイオリンの鈴木鎮一・チェロの鈴木二三雄兄弟と共に鈴木トリオを組んで活動。1941年、山本直忠『ピアノと大編成のオーケストラのための日本幻想曲』のレコード(指揮・山本直忠、中央交響楽団=現・東京交響楽団、販売・ビクター株式会社)により文部大臣賞受賞。
1945年5月に父が病死。1946年、女子第1期生として東京帝国大学法学部に入学[3]、学業のかたわらNHKの芸能嘱託として働き、公開演奏会などで活動、1949年卒業。同年、田中二郎の薦めで東京大学法学部学士助手となったが、1952年4月、国立国会図書館主事に転じ[4]、調査及び立法考査局政治行政室に勤務、1966年に政治行政課長就任。1975年、同局主幹。1982年に専門調査員となる。1983年退官。
1988年、八千代国際大学教授(憲法学)、1993年に退職。勲三等瑞宝章受章。生涯独身。没後、2009年、岩手県八幡平市に藤田晴子記念館が開館した。
著書
編集- 『楽の音によせて (音楽新書)』音楽之友社、1956年 doi:10.11501/2482059
- 『議会制度の諸問題』立花書房、1985年 doi:10.11501/11896730
- 『シューベルト生涯と作品』音楽之友社、2002年
- 『藤田晴子 音楽評論選 ピアノとピアノ音楽』音楽之友社、2008年
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ “1950年12月7日 − 東京 − 藤田晴子”. www.schottjapan.com. www.schottjapan.com. 2023年4月22日閲覧。
- ^ 各部門の入賞者決まる『大阪毎日新聞』(昭和13年4月23日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p59 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ もともと藤田は無試験の学部を探していたが、そのような学部は一つもなく、文学部美学科の入試科目は10科目以上に上ったのでこれを避け、試験科目が論文と外国語だけだった法学部を選んだという。『藤田晴子 音楽評論選 ピアノとピアノ音楽』p.45-46を参照。
- ^ 当時、国会図書館の内部では「有名ピアニストが国会図書館のような地味な職場に来ても長続きしないだろう」と予測して藤田の採用に反対する向きもあったが、初代館長の金森徳次郎がじきじきに藤田を面接して採用を決めた。このため藤田は辞令を受ける際「せめて1年間は勤めてくださいよ」と申し渡されたという。『藤田晴子 音楽評論選 ピアノとピアノ音楽』p.64を参照。
参考文献
編集- 『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- 『藤田晴子 音楽評論選 ピアノとピアノ音楽』音楽之友社、2008年