藤本薫喜
藤本 薫喜(ふじもと しげき、1902年(明治35年)2月27日 - 1980年(昭和55年)12月10日)は、日本の衛生学者。医学博士[1]。長崎大学医学部教授。日本栄養士会第2代会長[2]。愛媛県喜多郡五十崎町名誉町民。
経歴
編集愛媛県喜多郡五十崎村大字古田(のち五十崎町、現内子町)で、藤本松太郎の三男として生まれた[3]。
愛媛県立大洲中学校(現・愛媛県立大洲高等学校)、松山高等学校を経て1928年、東京帝国大学医学部を卒業した[3]。栄養研究所技師・同附属病院副院長を勤めた[3]。1940年、医学博士の学位受領[1][3]。陸軍軍医として太平洋戦争に従軍した[3]。1946年、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)教授になり、1967年の定年退官まで衛生学・公衆衛生学の教育と研究に当たった[3]。
1960年、県医師会顧問に就任した[3]。1968年、高知女子大学学長に就任した[3]。1976年から3年間松山東雲短期大学教授として栄養士養成に尽力[3]。1972年、勲三等旭日中綬章を受章[3]。
人物
編集1954年から郷里五十崎町の環境衛生指導・衛生思想の普及に努めた[3]。五十崎町の環境衛生モデル事業を指導し、愛媛県における健康管理・地域保健活動の基礎づくりをした[3]。
家族・親族
編集- 藤本家
脚注
編集- ^ a b 『学位大系博士録 昭和15-16年版』456頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月17日閲覧。
- ^ 歴代会長、公益社団法人 日本栄養士会公式サイト。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『改訂 五十崎町誌』907 - 910頁。
- ^ 『大日本篤農家名鑑』100頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月23日閲覧。
- ^ a b c 『愛媛県人物名鑑 第2輯 喜多郡、上浮穴郡、伊予郡之部』喜多郡ふの部98 - 99頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月23日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第14版 下』フ79頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月17日閲覧。
参考文献
編集- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 『愛媛県人物名鑑 第2輯 喜多郡、上浮穴郡、伊予郡之部』海南新聞社、1923 - 1924年。
- 「大日本博士録」編輯部編『学位大系博士録 昭和15-16年版』発展社出版部、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 五十崎町誌編纂委員会編『改訂 五十崎町誌』五十崎町、1998年。