藤塚 止戈夫(ふじつか しかお、1895年明治28年)4月26日[1][2] - 1961年昭和36年)11月9日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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兵庫県出身[1][2][3]。鉄器会社支配人・藤塚壬三の息子として生まれる[1]高等小学校大阪陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第70連隊付となる[1][4]。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した[1][2][3]

1925年(大正14年)8月、歩兵大尉に昇進し歩兵第70連隊中隊長に就任[1]参謀本部付勤務、参謀本部員(ロシア班)、ソビエト連邦駐在、参謀本部員、ポーランド公使館付武官補佐官を務め、1934年(昭和9年)8月、歩兵中佐に進んだ[1]陸軍歩兵学校教官、第4師団参謀を経て、1937年(昭和12年)8月、兵科航空兵に転科し航空兵中佐となる[1]。同年11月、航空兵大佐に進み浜松陸軍飛行学校研究部主事に就任[1][3]。飛行第65戦隊長を経て、1939年(昭和14年)12月、ルーマニア公使館付武官に発令され、1940年(昭和15年)12月、陸軍少将に進級した[1][2][3]

1942年(昭和17年)8月、鉾田陸軍飛行学校幹事に転じ、同校長を経て、1943年(昭和18年)10月、南方軍総参謀副長に発令され太平洋戦争に出征[1][2][3]。同月、第2軍参謀長に転じニューギニアの戦いに参戦[1][2]。1944年(昭和19年)6月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。同年12月、第6航空軍参謀長に転じ[2][3]、1945年(昭和20年)7月、歩兵学校付、同年8月、教育総監部付、同年9月、歩兵学校長となり同年11月まで在任し、同年12月、予備役に編入された[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

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外国勲章佩用允許

親族

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  • 長男 藤塚温威(陸軍中尉)[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、138頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』636-637頁。
  3. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』371頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』369、371頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」13頁。
  6. ^ 『官報』第4707号「叙任及辞令」1942年9月16日。
  7. ^ 『官報』第4707号「叙任及辞令」1942年9月16日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。