藤堂高悠
藤堂 高悠(とうどう たかなが)は、伊勢津藩の第8代藩主。藤堂家宗家8代。
藤堂高悠像 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 寛延4年6月8日(1751年6月30日) |
死没 | 明和7年閏6月2日(1770年7月24日) |
改名 | 斧千代(幼名)→与右衛門→高丘→高悠 |
戒名 | 到岸院殿円真高徳権大僧都 |
墓所 | 三重県伊賀市の上行寺 |
官位 | 従四位下、和泉守、侍従 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 伊勢津藩主 |
氏族 | 藤堂氏 |
父母 |
父:藤堂高朗 母:安藤信友の養女(安藤信周の娘) |
兄弟 | 高嶷、高朶、高悠、高興、娘(加藤泰候正室)、娘(清水谷公美室) |
子 | 養子:高嶷 |
生涯
編集寛延4年(1751年)、江戸卯原にて生まれる。初名は高丘。先代である父の藤堂高朗は第6代藩主・高治の長男・高般を養嗣子として迎えていた。宝暦2年(1752年)8月23日、高般の養子となる。宝暦4年(1754年)に高般が死去し、翌年3月13日に高治の嫡孫になった。明和3年(1766年)8月15日、将軍徳川家治に御目見する。同年12月19日、従四位下・大学頭に叙任する。明和6年(1769年)2月9日、高朗の隠居により家督を継ぐ。同年3月5日、和泉守に改める。同年12月18日、侍従に任官する。
高悠は勤皇の意思が強く、佐賀藩と協力して仙洞御所の普請役を率先して務めたが、そのため藩財政をさらに悪化させた。
生来から病弱ということもあって、明和7年(1770年)閏6月2日に20歳で病死した。嗣子がなく、跡を兄の高嶷が継いだ。
系譜
編集