藤原 真鷲(ふじわら の まわし)は、奈良時代貴族藤原北家左大臣藤原魚名の子。官位従五位下大宰少弐

 
藤原 真鷲
時代 奈良時代後期
生誕 不詳
死没 不詳
別名 真鷹、直鷹
官位 従五位下大宰少弐
主君 桓武天皇
氏族 藤原北家
父母 父:藤原魚名、母:不詳
兄弟 鷹取鷲取末茂藤成真鷲藤原小黒麻呂室、藤原長道
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経歴

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天応元年(781年従五位下叙爵。翌天応2年(782年氷上川継の乱に連座して父・魚名が左大臣を罷免されて大宰帥として九州に下向させられることになった際、真鷲もこれに従うように命じられた[1]。結局、魚名は病気を理由に九州に下向せず摂津国に留まり、翌延暦2年(783年)には子の鷹取末茂[2]と相前後して再び入京を許されていることから[3]、真鷲もこれまでに入京を許されたか。

延暦4年(785年大学頭に任ぜられ、翌延暦5年(786年伯耆守として地方官に転じる。任期末の延暦9年(790年)に任国で飢饉が発生したため、物資の支給が行われている[4]。同年右少弁に任ぜられて京官に復すが、翌延暦10年(791年)には大宰少弐として再び地方官に転じている。また、同年蝦夷征討のために、東山道に派遣されて兵士の検閲・武具の検査を行っている[5]

官歴

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続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 続日本紀』天応2年6月14日条
  2. ^ 『続日本紀』延暦2年7月23日条
  3. ^ 『続日本紀』延暦2年5月11日条
  4. ^ 『続日本紀』延暦9年3月15日条
  5. ^ 『続日本紀』延暦10年正月18日条

出典

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