藤原為房

平安時代後期の公卿。甘露寺家5代。藤原隆方の長男。正三位・参議

藤原 為房(ふじわら の ためふさ)は、平安時代後期の公卿藤原北家勧修寺流但馬守藤原隆方の長男。官位正三位参議坊城大蔵卿勧修寺と号した。

 
藤原 為房
時代 平安時代後期
生誕 永承4年(1049年
死没 永久3年4月2日1115年4月27日
別名 坊城大蔵卿勧修寺
官位 正三位参議
主君 白河天皇堀河天皇鳥羽天皇
氏族 藤原北家勧修寺流
父母 父:藤原隆方、母:平行親
源頼国女、藤原永業女
讃岐宣旨、藤原定俊
為隆顕隆重隆長隆泰隆朝隆親隆
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博学かつ、優秀な実務官僚として活躍し、のちの勧修寺流一門の繁栄の基礎を築いた。大江匡房藤原伊房と共に「前の三房」と称される。日記に『為房卿記』がある。

経歴

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延久3年(1071年後三条天皇六位蔵人に補せられ、翌延久4年(1072年)後三条天皇が白河天皇譲位して院庁を開くと為房は院判官代に任ぜられた。

延久5年(1073年従五位下叙爵し、承保2年(1075年遠江守に任官する。のち、中宮藤原賢子の中宮少/大進を経て、永保3年(1083年左衛門権佐検非違使佐)、永保4年(1084年五位蔵人応徳3年(1086年権左少弁と次々に要職に任ぜられ三事兼帯の栄誉に浴した。またその傍らで、摂関家師実師通忠実)の家司も務めている[注釈 1]

寛治6年(1092年)為房の下人が日吉神社神人を殺害したとの理由で延暦寺衆徒から訴えられ、阿波権守左遷されるが、翌寛治7年(1093年)赦されて帰京。嘉保元年(1094年)には弁官時代の「春日行幸行事賞」を名目に従四位下修理権大夫に叙任されて完全に復権した。

白河院近臣として信頼が厚く、嘉保2年(1095年)従四位上、嘉保3年(1096年正四位下嘉承2年(1107年)正四位上・蔵人頭と順調に昇進。天永2年(1111年参議に任ぜられ、勧修寺流としては高祖父藤原為輔以来125年ぶりの公卿となった。勧修寺流から公卿を輩出したことは驚きの目をもって迎えられたらしく、「一家の繁盛、千載の勝事」[2]、「凡人といへども、子孫繁盛の者」[3]、と評された。

その後も永久2年(1114年)院別当賞として正三位に至る。永久3年(1115年)4月2日腫物により薨去享年67。

為房の異例の昇進については、自身の能力に加え、妹藤原光子藤原公実の室で堀河・鳥羽両天皇の乳母)に負うところも大きかったとも言われている[4]。「夜の関白」の異名を有した次男藤原顕隆をはじめとする子孫は蔵人・弁官から参議を経て中納言に至る家系として定着することとなった。

永久元年(1113年)に発生した2つの事件において、為房の発言により、朝廷の方針が決したとの話が伝わっている。

鳥羽天皇暗殺未遂事件である永久の変において、犯人とされ流罪となった仁覚の係累についての詮議が起こった際、これほどの悪逆は父母兄弟まで関与したものではなく縁者に罪を問う必要はない、と為房は発言。これに公卿一同同意し、仁覚の父である左大臣源俊房を始め縁者については不問に付された[5]
興福寺延暦寺衆徒が繰り返し朝廷に対して強訴を行った、いわゆる永久の強訴において、延暦寺の衆徒が大挙して日吉神社の御輿を奉じて上洛し、以前興福寺の衆徒が上洛した際、祇園社神人に暴行を働いたとして、興福寺の権少僧都・実覚の流罪を朝廷に要求した。これに対して、白河法皇公卿を招集して対策を協議したが、藤原氏の氏寺である興福寺の仏罰と、目前に迫る延暦寺の衆徒との両方を恐れて、公卿方は全く発言する者はいなかった。しかし、藤原為房の発議によりようやく延暦寺の要求を入れることに決まり、朝廷は延暦寺に対して実覚の処罰と、今後興福寺の訴えがあっても延暦寺の僧綱を罰しないと約束した。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 更に村上源氏源雅実にも仕えていた時期がある[1]

出典

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  1. ^ 『長秋記』天永2年9月4日条
  2. ^ 中右記
  3. ^ 兵範記
  4. ^ 槇道雄『院近臣の研究』続群書類従完成会、2001年
  5. ^ 源平盛衰記
  6. ^ 台記久安3年10月24日条

参考文献

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  • 河野房雄「白河・鳥羽両院政下の内蔵頭」(『平安末期政治史研究』、東京堂出版、1979年)
  • 所功「筆者為房の略伝」(『史聚』10号、1979年)。
  • 木本好信「藤原為房-その生涯と日記『大府記』-」(『平安朝官人と記録の研究』、おうふう、2000年)
  • 槇道雄「夜の関白と院政」(『院近臣の研究』、続群書類従完成会、2001年)
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年