藤原泰通 (藤原惟孝の子)
平安時代中期の貴族。藤原北家勧修寺流。正四位下・春宮亮・播磨守。
藤原 泰通(ふじわら の やすみち、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族。藤原北家勧修寺流、駿河守・藤原惟孝の子。官位は正四位下・春宮亮。
経歴
編集若年時より左大臣・藤原道長の家司を務める。一条朝前期に六位蔵人を務めながら、左近衛将監・主殿助・式部丞を兼ね、長保2年(1000年)従五位下に叙爵した。
のち、中宮大進・美作介を経て、春宮・敦成親王の春宮大進を務め、この間の寛弘8年(1011年)正五位下に叙せられている。長和5年(1016年)正月に後一条天皇が即位すると五位蔵人に補せられ、2月には民部権少輔を兼ねるが、まもなく春宮大進の功労によって従四位下に叙せられ、1週間ほどで蔵人を去った。翌寛仁元年(1017年)美濃守に任ぜられると、治安元年(1021年)まで務め、この間の寛仁2年(1018年)従四位上、寛仁3年(1019年)正四位下と後一条朝初頭に順調に昇進を果たした。
治安元年(1021年)妻の源隆子が乳母をしていた春宮・敦良親王(のち後朱雀天皇)の春宮亮に任ぜられるが、この時点で美濃守任期満了後の解由状が提出されておらず、人々は驚き怪しんだという[1]。治安3年(1023年)には播磨守を兼ねる。万寿4年(1027年)の国司の任期満了後も引き続き春宮亮を務め、長元4年(1031年)にこれを帯びていた記録が残っているが、長元9年(1036年)の後朱雀天皇の即位までには没したとみられる。
官歴
編集- 長徳3年(997年) 8月1日:見六位蔵人兼左近衛将監[2]
- 長徳4年(998年) 正月25日?:主殿助(帯刀労)[3]。11月22日:見式部丞[2]
- 長保2年(1000年) 正月24日:従五位下?[3]
- 寛弘2年(1005年) 2月20日:中宮大進(中宮・藤原彰子)[4]
- 時期不詳:美作介[5]
- 寛弘5年(1008年) 2月27日:昇殿[6]
- 寛弘8年(1011年) 6月9日:正五位下[2]
- 長和元年(1012年) 日付不詳:辞美作介[7]
- 長和5年(1016年) 正月29日:五位蔵人[4]、元春宮大進[3]。2月3日:民部権少輔[8]。2月6日:従四位下(御即位叙位)[3]。2月8日:昇殿
- 寛仁元年(1017年) 8月10日:春宮昇殿(春宮・敦良親王)[9]。10月4日:見美濃守[4]
- 寛仁2年(1018年) 10月22日:従四位上(上東門院行幸行事賞)[4]
- 寛仁3年(1019年) 12月21日:正四位下(造殷富門功)[4]
- 治安元年(1021年) 日付不詳:辞美濃守[10]。8月29日:春宮亮[4]
- 治安3年(1023年) 12月15日:兼播磨守[4]
- 万寿4年(1027年) 日付不詳:辞播磨守?[11]
- 長元4年(1031年) 正月3日:見春宮亮[9]
系譜
編集『尊卑分脈』による。