藤原 智泉(ふじわら の よしふち/としみつ[1])は、平安時代前期の貴族藤原北家魚名流越前守藤原高房の子。官位正五位下播磨介

 
藤原 智泉
時代 平安時代前期
生誕 不詳
死没 不詳
官位 正五位下播磨介
主君 陽成天皇光孝天皇宇多天皇
氏族 藤原北家魚名流
父母 父:藤原高房、母:藤原真夏の娘
兄弟 生丘智泉山蔭時長積善朝行尚忠
紀道成の娘
佐高
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経歴

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元慶元年(877年陽成天皇大嘗会に際して、美濃守源覚らとともに悠紀方の行事に任命される(この時の官職従五位下肥後介)。

のち、豊後守に遷って引き続き九州地方の地方官を務めるが、元慶3年(879年)智泉は「凡そ一国の興廃はただ官長に繋がる。庶務の理乱は佐職によるに非ず」として、任用官(現地の最高責任者である受領以外の国司)による郡司・書生等に対する懲戒権の剥奪を提言する。これは五位の介を適用外として法制化され[2]、それまで国司の四等官が等しく保持していた懲戒権が官長(受領)に限定されるようになった[3]

元慶7年(883年)従五位上に昇叙され、のち時期は不明ながら正五位下播磨介に叙任されている。

官歴

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日本三代実録』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ a b c 『尊卑分脈』
  2. ^ a b 『類聚三代格』巻7,元慶3年9月4日官符
  3. ^ 佐藤[2002: 107]
  4. ^ 『政事要略』巻53

参考文献

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