藤原教貴
藤原 教貴(ふじわら の きょうき、生年不明 - 延暦8年7月25日(789年8月27日))は、奈良時代後期の女官。姓は朝臣。官位は正四位上・命婦。名は教基とも表記される。
生涯
編集光仁朝の宝亀7年(776年)に無位から従五位上に叙され[1]、この頃に後宮に出仕したものと推定される。翌宝亀8年(777年)には従四位下に進む[2]。桓武朝の天応元年(781年)6月、命婦として正四位下を授けられている[3]。延暦2年(783年)には紀宮子・平群邑刀自・藤原産子とともに正四位上に昇叙し[4]、後宮での地位を高めてきたが、延暦8年(789年)7月に卒去[5]。翌延暦9年(790年)8月8日の太政官符により、河内国若江郡・讃良郡・高安郡にあった各1町の位田は「大納言」職の職田の一部に改められている[6]。
官歴
編集『続日本紀』による