藤原定通
藤原 定通 (ふじわら の さだみち、応徳2年(1085年) - 永久3年8月24日(1115年9月14日))は、平安時代後期の貴族。藤原北家閑院流、権中納言・藤原保実の子。小野宮流、権中納言・藤原通俊、次いで、中御門流、藤原宗通の養子。官位は正五位下・右少弁。
経歴
編集承徳3年(1099年)権中納言・藤原通俊が没すが、それ以降に通俊の養子となる。のち、権大納言・藤原宗通の養子となった[1]。
従五位下に叙爵後、白河院政期中期の長治元年(1104年)左衛門佐に任官する。少納言・兵部大輔を経て、永久3年(1115年)8月に右少弁に任ぜられるが、同月24日に卒去。享年31。右少弁に任じられるも10日余りで没したため、世に七日弁と称された[1]。
官歴
編集系譜
編集『尊卑分脈』による。