藤原基忠 (非参議)

鎌倉時代前期の公卿

藤原 基忠(ふじわら の たかただ)は、鎌倉時代前期の公卿左大臣藤原隆忠の長男。官位従二位非参議

 
藤原基忠
時代 鎌倉時代前期
生誕 元暦元年(1184年)? [1]
死没 不明
官位 従二位非参議
主君 土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇
氏族 松殿家
父母 父:藤原隆忠、母:源通家
源雅行の娘
尊基、忠瑜、尋源室
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経歴

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祖父・基房と叔父の松殿師家治承・寿永の乱の最中に失脚したが、父・隆忠は連座せず、その後も出世していった中、基忠自身も元久2年12月26日1206年1月16日)に従三位となり公卿に列せられる。

その後、従二位まで官位は昇るが、参議以上の議政官にはなる事ないまま嘉禄元年12月26日1226年1月25日)に出家した。

伝えられるところでは、基忠の妻は源雅行の娘であったが、異母弟[2]である源親行道ならぬ恋となって弟との駆け落ちを試みて家を飛び出したとされている。後に2人は雅行に連れ戻されるが、基忠の出家から半年後の嘉禄2年6月23日(1226年7月18日)、考えを改めない2人に憤った雅行は家臣の青侍に命じて2人を斬り捨てて、斬首の後に遺体を六条朱雀(六条大路と朱雀大路の交差点)に晒したという(『経光卿記』・『明月記』)。藤原定家は親行とその姉(基忠室)の「悪行」を非難しつつも、雅行が勝手に実の子を殺害する行為についても糾弾している(定家は雅行も親行も公家である以上、その処罰は朝廷に委ねるべきであったとしている)。角田文衛は基忠の出家の背景には妻の駆け落ちが背景にあったのではないかとしている[3][4]

系譜

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脚注

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  1. ^ 出家時の年齢からの逆算。公卿補任での承久3年(1219年)から元仁元年(1224年)までの各年齢を逆算すると建久5年(1194年)生まれとなるが、その場合弟の教忠より歳下となってしまう。
  2. ^ 角田文衛は親行を兄とするが、川上健太は『明月記』を根拠に基忠室を姉とする。
  3. ^ 角田文衞「侍従親行の悲恋」『王朝の明暗 平安時代史の研究 第二冊』東京堂出版、1977年、595ー598頁。 
  4. ^ 川上健太「源雅行年譜」『就実大学史学論集 32-4』就実大学人文科学部総合歴史学科、2018年