藤井顕孝
藤井 顕孝(ふじい けんこう、1897年〈明治30年〉3月3日[1] - 1979年〈昭和54年〉10月21日[2])は、日本の地方政治家。初代東久留米市長。
藤井顕孝 ふじい けんこう | |
---|---|
生年月日 | 1897年3月3日 |
没年月日 | 1979年10月21日(82歳没) |
出身校 | 早稲田大学文学部卒業 |
前職 | 久留米町教育委員長 |
所属政党 | 無所属 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1963年 - 1975年1月20日 |
来歴
編集1924年(大正13年)早稲田大学文学部卒[1]。浄牧院住職、鉄道教習所講師、東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)教員、久留米町教育委員長を歴任した[1]。
1959年久留米町長選挙
編集1959年(昭和34年)の久留米町長選挙に立候補したが、この時は前職の番場憲隆に敗れた[3]。
※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
---|---|---|---|---|---|---|
番場憲隆 | - | 無所属 | 前 | 3,084票 | 51.4% | - |
藤井顕孝 | 62 | 無所属 | 新 | 2,839票 | 47.3% | - |
加賀谷募 | - | 諸派 | 新 | 45票 | 0.8% | - |
荻原佑介 | - | 諸派 | 新 | 29票 | 0.5% | - |
1963年久留米町長選挙
編集1963年(昭和38年)の町長選挙で、社会党の新人を破って、初当選を果たした[3]。
※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
---|---|---|---|---|---|---|
藤井顕孝 | 66 | 無所属 | 新 | 6,825票 | 54.6% | - |
久野慎一郎 | - | 日本社会党 | 新 | 5,667票 | 45.4% | - |
1967年久留米町長選挙
編集1967年(昭和42年)の町長選挙では、別の社会党新人との争いとなったが、これを破って再選を果たした[3]。
※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
---|---|---|---|---|---|---|
藤井顕孝 | 70 | 無所属 | 前 | 10,830票 | 55.2% | - |
武井京 | - | 日本社会党 | 新 | 8,792票 | 44.8% | - |
1970年(昭和45年)久留米町は市制施行により東久留米市と改称。初代市長となった[1]。
1971年東久留米市長選挙
編集市制施行後初の選挙であったが、前々回で破った社会党新人ら2人を破って3選を果たした[3]。
※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts)
候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
---|---|---|---|---|---|---|
藤井顕孝 | 74 | 無所属 | 前 | 16,634票 | 49.2% | - |
久野慎一郎 | - | 日本社会党 | 新 | 9,538票 | 28.2% | - |
工藤芳郎 | - | 無所属 | 新 | 7,666票 | 22.7% | - |
脚注
編集参考文献
編集- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。