薛調
薛調(せつ ちょう、大和4年(830年) - 咸通13年2月26日(872年4月7日))は晩唐の進士。河中府宝鼎県(現在の山西省運城市万栄県)の人。憲宗朝の御史大夫で河東郡公に封じられた薛苹の孫で婺州刺史の薛膺(せつよう)の子[1]。
大中8年(854年)頃の進士登第と推定され[2]、同期登第者である李瓚(李宗閔の子)と並称され、俊爽ではあるが猜疑心の強かった李瓚が「剣」と呼ばれたのに対して、薛調は姿貌が美しく性格も寛恕であった為に「生菩薩」と呼ばれたといい、その人柄から劉允章に好まれ、また、翰林学士となった際には郭妃がその容姿を賞して懿宗に「駙馬(の容姿)も調には及ばない」と言ったという[3](駙馬とは公主の婿)。
官歴は詳らかでないが、咸通元年(860年)5月当時に右拾遺にして内供奉であった事[4]、咸通11年(870年)に戸部員外郎(戸部の判官)から駕部郎中(兵部の判官)へ調されて更に翰林学士の承旨を充てられ、咸通12年(871年)には知制誥に至った事、咸通13年(872年)2月26日に43歳で暴卒して戸部侍郎を追贈された事が知られている[5]。『無双伝』の著作があってその中に仮死の秘薬が登場するのでそうした事に関心があると考えられたものか[6]、世間では鴆(ちん)に中(あた)ったものと噂されたというが[7]、上記郭妃の感想も影響してその美貌を嫉んだ何者かに依って毒殺された疑いもある[8]。
脚注
編集- ^ 『新唐書』巻73下、宰相世系表3下。
- ^ 黒田真美子『枕中記・李娃伝・鶯鶯伝他』(中国古典小説選5)「無双伝」余説、明治書院、2006年。孟二冬『登科記考補正』巻22に拠るという。
- ^ 王讜(おうとう)『唐語林(とうごりん)』巻4「容止」。魯迅『唐宋伝奇集』附載「稗辺小綴」第4分に拠る。
- ^ 司馬光「唐紀」66(『資治通鑑』巻250)咸通元年5月壬申(23日)条。
- ^ 王前掲書。洪遵(こうじゅん)『翰苑群書(かんえんぐんしょ)』巻6「承旨学士壁記」。
- ^ 黒田前掲余説。
- ^ 王前掲書。鴆は毒鳥であるがここでは毒物一般を指したものと思われる(増子和男「唐代傳奇「無雙傳」に關する一考察 -假死藥を中心として- (下)」『中國詩文論叢』第23巻、中國詩文研究會、2004年12月、57-65頁、CRID 1050001202461813120、hdl:2065/40664、ISSN 0287-4342。)。
- ^ 李劍國「無雙傳」『唐五代志怪傳奇叙録』(第2刷版)第3巻所収、南開大學出版社、1998年。
参考文献
編集- 近藤春雄『中国学芸大事典』大修館書店、昭和53年