蕭恢
蕭 恢(しょう かい、元徽4年(476年)- 普通5年9月13日[1](526年10月4日))は、南朝梁の皇族。鄱陽忠烈王。字は弘達。武帝蕭衍の弟にあたる。
経歴
編集蕭順之の十男として生まれた。母は費太妃。幼い頃から聡明で、7歳のときに『孝経』と『論語』の意味をすべて理解したとされる。成長すると、史籍を渉猟した。斉の隆昌年間に宣城公蕭鸞が太傅となると、蕭懿に弟たちの中で腹心として任せられる者の推挙を求めた。蕭懿は蕭恢を推挙した。蕭鸞は蕭恢に寧遠将軍の位を与え、驃騎法曹行参軍として召し出した。建武元年(494年)、蕭鸞(明帝)が即位すると、蕭恢は太子舎人となり、北中郎外兵参軍・前軍主簿を歴任した。永元2年(500年)、蕭懿が殺害されると、蕭恢は逃亡して建康城下に潜伏した。
蕭衍が起兵すると、蕭恢は新林で蕭衍の軍を迎え、輔国将軍の位を受けた。三呉の地方で蕭衍に対する反抗が多発していたので、蕭衍は蕭恢に命じて鎮圧させた。建康が平定されると、蕭恢は召還されて冠軍将軍・右衛将軍となった。天監元年(502年)、侍中・前将軍・領石頭戍事に任じられ、鄱陽郡王に封じられた。天監2年(503年)、使持節・都督南徐州諸軍事・征虜将軍・南徐州刺史として出向した。天監4年(505年)、持節・都督郢司二州諸軍事・後将軍・郢州刺史に転じた。郢州城内は疫病が蔓延して死者が多く、葬儀もできない有様であったため、蕭恢は車を下りて、急いで埋葬を命じた。また4人の使者に州内を巡察させた。
天監7年(508年)、雲麾将軍に進み、都督霍州諸軍事となった。同年8月、平西将軍に進んだ。天監10年(511年)、召還されて侍中・護軍将軍・領石頭戍事となり、宗正卿を兼ねた。天監11年(512年)、使持節・都督荊湘雍益寧南北梁南北秦九州諸軍事・平西将軍・荊州刺史として出向した。天監13年(514年)、持節・散騎常侍・都督益寧南北秦沙七州諸軍事・鎮西将軍・益州刺史に転じた。天監17年(518年)、召還されて侍中・安前将軍・領軍将軍となった。天監18年(519年)、使持節・散騎常侍・都督荊湘雍梁益寧南北秦八州諸軍事・征西将軍・開府儀同三司・荊州刺史として出向した。普通5年(524年)、驃騎大将軍に進んだ。
子女
編集脚注
編集- ^ 『梁書』巻3, 武帝紀下 普通七年九月己酉条による。