蓼沼丈吉
実業家、政治家
4代 蓼沼 丈吉(たでぬま じょうきち、1862年8月23日(文久2年7月28日[1])- 1919年(大正8年)7月1日[2][3])は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、栃木県多額納税者、栃木県安蘇郡三好村長。幼名・勝蔵、千代吉[4]。田中正造の支援者の一人[5]。
経歴
編集下野国安蘇郡岩崎村[4](栃木県[2]安蘇那岩崎村、三好村[3][5]、田沼町[4][5]を経て現佐野市岩崎町)で、地主、呉服太物業・2代丈吉、智恵の二男として生まれる[4]。16歳から家業に従事[4]。1886年(明治19年)6月、兄・3代丈吉の死去に伴い家督を相続し4代丈吉を襲名した[1][4][5]。
1887年(明治20年)下野石灰監査委員に就任。以後[4]、葛生銀行幹事、同取締役、佐野鉄道社長、佐野銀行取締役、下野新聞取締役、栃木県農工銀行監査役などを務めた[1][2][3][4][5]。
政界では、1889年(明治22年)三好村会議員に就任[4][5]。以後、栃木県会議員、三好村長を務めた[2][3][4][5]。田中正造の辞職に伴い、1901年(明治34年)11月に実施された第6回衆議院議員総選挙栃木県第3区補欠選挙で田中の後継者として当選し[4][5][6][7]、衆議院議員に1期在任した[2][3]。
また、資産の一部と寄付金を用いて1911年(明治44年)財団法人蓼沼慈善団(現:公益財団法人三好園)を設立して理事長に就任し、青少年の育英資金の貸与を行った[2][3][4]。
著作
編集- 『足尾銅山鉱毒被害救済私見』山田友次郎、1902年。