蓮聖(れんしょう)は、平安時代中期の僧侶

蓮聖
天暦6年 - 不明(宣明暦
952年 - 不明〈ユリウス暦〉)[1]
法名 蓮聖
宗旨 法相宗
寺院 興福寺
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略歴

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康保元年(964年)頃に得度興福寺に属する。正暦2年(991年維摩会の研学竪義を務める[1]寛弘元年(1004年法華寺別当に就任[2]。寛弘2年(1005年)維摩会講師に進む[3]

寛弘3年(1006年6月大和国の住人で大和守源頼親郎党当麻為頼と興福寺の所領論争が激化し、為頼による興福寺荘官殺害事件が発生。蓮聖は報復として僧3,000名を率いて為頼の邸宅を攻撃し、屋敷と田畑200余町を焼き払った。国司の頼親はこれを不法行為として報告したため、朝廷は蓮聖の公請を停止する処分を下した[4]。翌月、興福寺は別当定澄を筆頭に僧2,000を率いて入京して強訴に及び、検非違使に退けられると続いて蓮聖の赦免と頼親・為頼の停任を要求した。後者は左大臣藤原道長によって退けられたが、蓮聖の宥免については再度申し立てを命じられている[5]

参考文献

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  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第二編』 1巻、東京大学出版会、1968年。ISBN 978-4-13-090051-5 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第二編』 5巻、東京大学出版会、1969年。ISBN 978-4-13-090055-3 

脚注

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