桓武朝の天応元年(781年)9月に一族と思われる蓋麻呂ら3人、蓋三野麻呂ら3人がそれぞれ「吉水連」・「吉水造」の氏姓を授けられており[1]、『新撰姓氏録』「左京諸蕃」に「出自前漢魏郡人蓋寛饒也」と見え、大陸系の渡来氏族であることが分かる。
聖武朝の天平17年(745年)8月の内薬司解に正六位上・内薬佑・侍医として見える[2]。
天平感宝元年(749年)、吉田兄人とともに外従五位下に昇叙する。これは聖武天皇の病床に侍した労に対し、黄金産出を機に酬いたものと考えられている[3]。
注記のないものは『続日本紀』による。
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