蒼頡(そうけつ、 倉頡とも。拼音: Cāng Jié紀元前4667年 - 紀元前4596年)は、漢字を発明したとされる古代中国の伝説上の人物。

倉頡(『君臣図像』より)

人物

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伝説によれば、蒼頡は黄帝に仕える史官であった。それまで中国の人々は、インカ帝国キープのような縄の結び目(結縄)を記録に用いていたが、蒼頡は鳥や獣の足跡の形によって元の動物を推測できることから、文字によって概念を表現できることに気付いたという。

戦国時代には蒼頡の伝説は既に一般化していた。淮南子には「蒼頡が文字を作ったとき、天は粟を降らせ、鬼は夜に泣いた」と記されている。また説文解字は、「蒼頡ははじめに作った文字はみな象形文字であり、これを「文」と呼ぶ。その後に形声文字が作られ、これを「字」と呼ぶ」としている。

また肖像画では、蒼頡は目が四つある人物として描かれており、これは蒼頡の優れた観察力を表現したものといわれる。中国でほかに帝舜項羽も四つの目をもつ人物として描かれる。

現在では、蒼頡の伝説は漢字を改良した実在の人物をモデルとしている可能性はあるにせよ、漢字は単一の人物によって創造されたものではないと考えられている。

蒼頡廟は現在の陝西省白水県史官郷にあり、彼の墓の横には大きな柏が植えられている。伝説によると、その木は17mの高さで、約4700年前蒼頡によって植えられたものであるという。

『蒼頡篇』

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代に成立し、代に再編纂された小学書(識字教科書)。漢代小学書の成立に多大な影響を与えた。

始皇帝は文字も統一をし、小篆を正式書体として採用。その際書かれたのが李斯の『蒼頡篇』、趙高の『爰歴』、胡毋敬の『博学篇』[1]。漢代に入り「閭里書師」が以上3篇を併せて55章に分け『蒼頡篇』と総称した[2]。その後亡失。

20世紀に入り、敦煌漢簡『蒼頡篇』や居延漢簡『蒼頡篇』が出土。1977年には漢代再編前と思われる阜陽漢簡『蒼頡篇』も出土したものの、推定される全文字数の六分の一ほどしか知られず全容は不明だった。しかし、2008年に出土した水泉子漢簡『蒼頡篇』や2009年北京大学が入手した北大漢簡『蒼頡篇』によって、研究の進展が期待されている[3]

脚注

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  1. ^ 説文解字』序「秦始皇帝初兼天下、丞相李斯乃奏同之、罷其不與秦文合者。斯作倉頡篇。中車府令趙高作爰歴篇。太史令胡毋敬作博学篇。皆取史籀大篆、或頗省改、所謂小篆也」。『漢書』芸文志「蒼頡一篇。上七章、秦丞相李斯作。爰歴六章、車府令趙高作。博学七章、太史令胡毋敬作。」
  2. ^ 漢書芸文志「漢興、閭里書師合蒼頡、爰歴、博学三篇、断六十字以為一章、凡五十五章、併為蒼頡篇。」
  3. ^ 『蒼頡篇』について-中国出土文献研究会

関連項目

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