董 厥(とう けつ、生没年不詳)は、中国三国時代の政治家。蜀漢に仕えた。字は龔襲荊州義陽郡の人[1]三国志蜀志に独立した伝はないが、「諸葛亮伝」に記録がある。

董厥
蜀漢
南郷侯・輔国大将軍
出生 生年不詳
荊州義陽郡
死去 没年不詳
拼音 Dǒng Jué
龔襲
主君 劉禅
テンプレートを表示

生涯

編集

諸葛亮が丞相となったとき丞相府の令史となり、諸葛亮から思慮深く過不足がない人物という評価を得た。その後、主簿に転任した。

諸葛亮の死後、徐々に昇進を果たし尚書僕射となった。やがて陳祗の後任として尚書令となる。後、樊建に尚書令を譲り、輔国大将軍・大将軍平台事となった。

陳祗の死後、景耀元年(258年)に平尚書事となった。景耀4年(261年)、諸葛瞻が平尚書事となり、董厥・樊建と共に朝政を統べる事となった。このときの肩書きは輔国大将軍・南郷侯となっている。

彼等の上席である姜維は戦いで外地にあったため、黄皓が政治の実権を握るようになっていた。董厥達はお互いが庇い合うのみで、政治の歪みを正すことはできなかった。董厥は樊建と違い、諸葛瞻とともに黄皓と私的な親交を交すようになっていたという。

董厥と諸葛瞻は、姜維が外征により国力を疲弊させていると考え劉禅に上奏し、姜維の軍権を剥奪して益州刺史に転任させ、国内に召還するよう要請することを考えたという[2]

景耀6年(263年)、が大軍を率い侵攻して来ると、董厥は張翼廖化とともにその迎撃に向かった[3]。また董厥は、張翼とともに陽安関の入り口にも向かった[4]。すると漢寿まで来たところで、陰平より敗走してきた姜維・廖化と合流したため、剣閣に立て籠って堅守することにした[4]。しかし成都を目指した魏軍は、間道を伝って別方面より江油と綿竹を落し、諸葛瞻を戦死させた[5]。このため劉禅は、譙周の勧めで降伏を決断した(蜀漢の滅亡[6]。その後、董厥は姜維らとともに鍾会軍へ降伏し、成都に戻った。

咸熙元年(264年)春、劉禅は一家を挙げて洛陽へ移住することになった[3]。董厥も樊建とともに洛陽へ赴き相国参軍となり、その年の秋には樊建とともに散騎常侍を兼任し、益州民心の鎮撫にあたったという。なお、劉禅に従った蜀の旧臣の多くは列侯されたが、その中に樊建の名はあるが董厥の名はない[3]

小説『三国志演義』では、蜀滅亡後、劉禅が洛陽へ向かうときに病気となり、廖化とともに憂死したことになっている。

脚注

編集
  1. ^ 『三国志』蜀志 諸葛亮伝が引く『晋百官表』
  2. ^ 孫盛著『異同記』
  3. ^ a b c 『三国志』蜀志 後主伝
  4. ^ a b 『三国志』蜀志 姜維伝
  5. ^ 『三国志』蜀志 姜維伝・諸葛亮伝
  6. ^ 『三国志』蜀志 譙周伝