和帝のとき、文章や記録を得意として名を知られた。性格は意気盛んで勇ましく、膂力は人並み外れていた。安帝の永初年間、孝廉に察挙され、太官丞となった。便宜四事を上書して、蕩陰県令に任じられた。太尉府に辟召されたが、病のため就任しなかった。州により茂才に挙げられ、臨汾県令となった。2県令を歴任して、いずれも治績を挙げた。入朝して黄門郎となった。
かれによって著された文・賦・碑・誄・書記は合わせて12篇あった。また文集があった[1]。
- ^ 『隋書』経籍志四に「後漢黄門郎葛龔集六巻梁五巻、一本七巻」とあり、『旧唐書』経籍志下および『新唐書』芸文志四に「葛龔集五巻」とある。