葛西貞清
葛西 貞清(かさい さだきよ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期の武将。葛西氏の当主。葛西 清貞(かさい きよさだ)とも呼ばれる。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 観応元年/正平5年3月16日(1350年4月23日)[1] |
別名 | 清貞、清定、円蓮(法名) |
官位 | 武蔵守、贈正四位 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 葛西氏 |
父母 | 父:葛西宗清[2](あるいは清信)、母:不詳 |
子 | 高清 |
生涯
編集当主・葛西宗清(清宗)の子として生まれた[2]。執権・北条貞時から「貞」の偏諱を受けた[3]。
建武2年(1335年)、北畠顕家が足利尊氏の追討のために奥州から出陣すると、父・宗清とともにその追討軍に加わった[2]。
延元2/建武4年(1337年)、顕家に従って伊達郡霊山城へと移り、同年末からの西遠軍にも再び従軍した[2]。
延元3/建武5年(1338年)、顕家が死亡すると奥州に戻り、北畠親房、北畠顕信らに協力し、北朝側の斯波氏、石塔氏らと戦った[2]。