菫 (橘型駆逐艦)
橘型(改松型)駆逐艦
菫(すみれ)は日本海軍の駆逐艦。仮称5520号艦、橘型(改松型)駆逐艦6番艦として横須賀海軍工廠で建造された。
菫 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | 横須賀海軍工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
級名 | 橘型駆逐艦 |
艦歴 | |
計画 | 1944年度(昭和19年度)計画 |
起工 | 1944年10月21日 |
進水 | 1944年12月17日 |
竣工 | 1945年3月26日 |
除籍 | 1945年10月5日 |
その後 | 1947年8月20日英国へ引き渡し |
要目(計画値) | |
基準排水量 | 1,262 トン |
公試排水量 | 1,530 トン |
全長 | 100.00 m |
最大幅 | 9.35 m |
吃水 | 3.30 m |
主缶 | ロ号艦本式ボイラー×2基 |
主機 | 艦本式タービン×2基 |
出力 | 19,000 馬力 |
推進器 | スクリュープロペラ×2軸 |
速力 | 27.8 ノット |
燃料 | 重油 370 t |
航続距離 | 3,500 海里/18ノット |
乗員 | 211 - 335 名[1] |
兵装 |
|
レーダー | 22号電探×1基 |
ソナー |
四式水中聴音機×1基 三式探信儀一型×1基 |
艦歴
編集竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将)に編入。二番高角砲に不具合があって修理を受け[2]、瀬戸内海に向かう。やがて、第十一水雷戦隊は瀬戸内海への機雷投下を避けて日本海側に移動することとなる。5月27日に舞鶴に到着するも、舞鶴鎮守府から「空襲の際に刺激となる」との理由で、舞鶴以外の場所へ移動するよう要請を受ける[3]。そこで、6月に入って小浜湾に移動することとなった[4]。7月15日付で特殊警備艦となって舞鶴鎮守府部隊に編入され[5]、7月23日に舞鶴に戻った[6]後は終戦を迎えた。
同年10月5日に除籍され、12月1日には特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事。その後、賠償艦として1947年(昭和22年)8月20日に香港でイギリスへ引き渡され、同年にシンガポール沖で標的として処分された。
歴代艦長
編集※『艦長たちの軍艦史』370頁による。
艤装員長
編集- 高柳親光 少佐 1945年2月10日-
駆逐艦長
編集- 高柳親光 少佐 1945年3月26日-
- 若松武次郎 大尉 1945年7月15日-
脚注
編集参考文献
編集- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.43 松型駆逐艦』学習研究社、2003年。 ISBN 4-05-603251-3
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C08030128000『自昭和二十年四月一日至昭和二十年四月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』、1-29頁。
- Ref.C08030128000『自昭和二十年五月一日至昭和二十年五月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』、30-61頁。
- Ref.C08030128100『自昭和二十年六月一日至昭和二十年六月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』、1-20頁。
- Ref.C08030128100『自昭和二十年七月一日至昭和二十年七月十五日 第十一水雷戦隊戦時日誌』、21-34頁。