菩薩 (ウイグル)
回紇部の部族長
菩薩(呉音:ぶさち、漢音:ほさつ、拼音:Púsà、? - 629年)は、回紇部の部族長(俟斤、頡利発)。特健俟斤の子。姓は薬羅葛(ヤグラカル)氏で、名は菩薩[1]。
生涯
編集特健俟斤と烏羅渾[2]の間に生まれる。
菩薩は頭がよく、策謀に優れており、武勇にも秀でていたことから、民衆に慕われ、その人気は父をも凌ぐものだった。そのため父の反感を買い、回紇部から追い出されてしまう。
父が亡くなると、民衆はふたたび菩薩を呼び戻して彼を推戴したため、菩薩は回紇部の俟斤(イルキン:部族長)となった。彼は物事に対して厳格であり、裁きも平等であったことから、人心を得た回紇部は次第に勢力を増していった。
貞観元年(627年)、薛延陀部と共に東突厥の北辺を攻めることとなり、菩薩は5千騎を率いて東突厥の欲谷設(ユクク・シャド)率いる10万と戦い、馬鬣山で撃破した。菩薩は東突厥軍を北の天山[3]にまで追撃し、大いにその部人を捕虜としたため、北方にその名声が響き渡った。これ以降、回紇部は薛延陀部と組んで唇歯の関係となり、菩薩は活頡利発(かつイルテベル)と号して牙を独楽水(トール川)上に建てた。
貞観3年(629年)、回紇部は初めて唐に来朝し、方物を献上した。時に東突厥は唐の羈縻(きび)支配下に入っていたので、北方の草原地帯(モンゴル高原)では回紇部と薛延陀部の2部が最強となっていた。この年、菩薩が死去し、代わって吐迷度(トゥメド)が後を継ぐ。
脚注
編集参考資料
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