菅田栄治
経歴
編集福米小学校、米子中学校(現米子東高校)を経て推薦で大阪高等工業学校に入学するが、同校が1929年に大学に昇格したのにともない、彼もまた大学に進学して 1932年に卒業、鉄道省への入省が決まっていたがあまりに成績が優秀ということで、そのまま講師として残った[2]。
1933年大阪帝国大学工学部専任講師に迎えられると、電子顕微鏡の研究一筋に打ち込み、1940年、国産第一号の電子顕微鏡の組み立てに成功した[1]。倍率一万倍、今から見れば幼稚であるが当時としては、驚くべき性能であった[1]。
人物像
編集→詳細は「松本豊 (実業家)」を参照
米子中学では特待生として授業料免除の恩典に浴す一方、柔道部に籍を置き、米中柔道部が山陰制覇をした時の先鋒をつとめるなど、まさしく文武両道を地でいく生徒であった[2]。
参考文献
編集- 『勝田ヶ丘の人物誌』(編集・勝田ヶ丘の人物誌編集委員会、発行・鳥取県立米子東高等学校創立百周年記念事業実行委員会 2000年、411-413頁)
著作
編集- 超電子顕微鏡研究をめぐりての技術者魂の発露(『軍事と技術』第201号、1943年9月)