菅原資忠
平安時代中期の貴族。従四位下・右中弁、文書博士
菅原 資忠(すがわら の すけただ)は、平安時代中期の貴族。右大臣・菅原道真の曾孫で、左少弁・菅原雅規の子。官位は従四位下・右中弁。
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 承平6年(936年) |
死没 | 永祚元年5月21日(989年6月26日) |
官位 | 従四位下、右中弁 |
主君 | 円融天皇→花山天皇→一条天皇 |
氏族 | 菅原氏 |
父母 | 父:菅原雅規、母:安倍春の娘 |
兄弟 | 資忠、董宣、良正、菅原為紀室 |
妻 | 源包の娘 |
子 | 孝標、致尚、文直、女子 |
経歴
編集村上朝の天暦10年(956年)以前に大学寮に入り[1]、秀才に及第する[2]。冷泉朝の康保5年(968年)課試宣旨を下されている(この時の官位は正六位上・文章得業生美濃権少掾。
円融朝に入ると、内記を経て従五位下・勘解由次官に叙任される。花山朝から一条朝初頭にかけて、文章博士・大学頭・弁官を歴任する一方、近江権介・但馬権守を兼ねた。位階は従四位下に至る。この間の寛和元年(985年)伊勢斎宮・規子内親王の奉迎使に任ぜられている[3]。
永祚元年(989年)5月中旬より瘧のような症状を発し、3日ほど懊悩したのち21日に卒去[2]。享年54。最終官位は右中弁従四位下。