范陽郡(はんよう-ぐん)は、中国にかつて存在した三国時代から唐代にかけて、現在の河北省北京市にまたがる地域に設置された。

概要

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漢の高祖が設置した涿郡を前身とする。三国の文帝により、涿郡は范陽郡と改称された。

265年泰始元年)、司馬綏の范陽王に封じられると、范陽郡は范陽国と改められた。西晋の范陽国は幽州に属し、涿良郷方城長郷故安范陽容城の8県を管轄した[1]

北魏のとき、范陽郡は涿・固安・范陽・萇郷・方城・容城・遒の7県を管轄した[2]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、范陽郡は廃止されて、幽州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、幽州は涿郡と改称された[3]

618年武徳元年)、唐により涿郡は幽州と改められた。742年天宝元年)、幽州は范陽郡と改称された。758年乾元元年)、范陽郡は幽州と改称され、范陽郡の呼称は姿を消した[4]

脚注

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  1. ^ 晋書』地理志上
  2. ^ 魏書』地形志二上
  3. ^ 隋書』地理志中
  4. ^ 旧唐書』地理志二