若井 伸之(わかい のぶゆき、: Nobuyuki Wakai1967年7月25日 - 1993年5月1日)は、千葉県八千代市出身の日本のオートバイレーサー。ロードレース世界選手権(WGP)の125ccクラス・250ccクラスに参戦した。細身で長身な体格と、その長い手足を折り畳むライディングスタイルから「フラミンゴ」の愛称で親しまれた。

若井 伸之
1992年日本GPにて
グランプリでの経歴
国籍 日本の旗 日本
活動期間 1990年 - 1993年
チーム ホンダスズキ
レース数 30
表彰台回数 2
通算獲得ポイント 119
ファステストラップ回数 1
初グランプリ 1990年 (125cc) 日本GP
最終グランプリ 1993年 (250cc) 日本GP
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経歴

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1990年に全日本ロードレース選手権でランキング2位となった若井は、翌1991年から坂田和人上田昇(当初はスポット参戦)とともにWGP・125ccクラスにフル参戦を開始。他の2人とともに、プライベート日本人ライダーの先駆者となった。当初はなかなか結果を残せずにいたが、最終戦マレーシアGPでは、トップ争いの末3位表彰台を獲得。

翌1992年開幕戦日本GPでも、雨の中地元で3位に入るなど、結果を残すようになる。またドイツGPでは、怪我により欠場したウィルコ・ズィーレンベルグの代役として、スズキから250ccクラスにスポット参戦、7位入賞を果たしている。

1993年、若井はスズキより前年型のワークスマシンRGV250-γの貸与を受け、250ccクラスにステップアップ。しかし250ccクラスのマシンに馴染めず、同年から参戦した親友で弟分の原田哲也らが活躍を続ける一方で、結果を出せずにいた。

事故死

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第4戦スペインGPの予選中、タイムアタックを行うべく、フル加速でピットロードから飛び出そうとしていた若井の前に、突然観客が飛び出してきた。この観客はロリス・レジアーニのファンクラブ会員でゲストとして来ていた、ワイン商のファビオ・ラヴァイオーリであり、本来パスがなければ入れない場所に無断でいたところを、オフィシャルに見つかり逃げ出したところだった。若井が回避を試みたおかげで、ラヴァイオーリは大腿骨骨折と脳震盪となったものの命に別状はなかった[1]。しかし若井本人はバランスを崩してピットロードのコンクリートウォールに激突。頭部を強打した若井は懸命の治療の甲斐無く死去、25歳没。1986年に完成したヘレス・サーキットで初めての死亡事故となった。

若井の死を受けて、他の日本人ライダーは当初出走の辞退も考えたが、原田が出走を決意したのを皮切りに、最終的には「若井のために頑張ろう」と出場を決めた。250ccクラスの決勝では、原田がコースレコードをも更新する走りで、他に大差を付けて優勝。125ccクラスでも、坂田がラルフ・ウォルドマンを振り切り、WGP初優勝を遂げた。

レース終了後、原田はバイクにまたがったまま号泣し続け、坂田も表彰台で悲壮な表情と涙をみせた。また、このレースで5位に入賞した上田はレース後、若井の事故現場まで自身のマシンで近づき、コンクリートウォールを軽く叩いて若井に別れを告げた。原田はこのときの優勝トロフィーを、若井の遺族に送った。

エピソード

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  • 陽気で面倒見の良い性格からパドックでも人気者だった。坂田や原田は当初世界選手権に興味が無かったが、「世界選手権の良さ」を散々若井から聞かされ、WGPへの参戦を決意したという。
  • 死後、募金で集めた資金でヘレス・サーキットには若井を偲ぶフラミンゴのモニュメントが建てられた。その余剰金は、モンゴル国のアイスレースへの支援にも使われ、フラミンゴカップとして開催された。
  • 1993年最終戦FIMGPでは、若井の姉がサーキットを訪れ、チャンピオン争いの渦中にいた原田を激励した。その後の決勝レースでは、不利な立場にいた原田が、日本人ライダーとして16年ぶり[2]のチャンピオンを獲得している。この際に同GPを中継していたテレビ大阪では、実況の千年屋俊幸が、最終周に「若井と一緒に走る原田のファイナルラップ」と表現した。後に原田も、走行中に若井のことが頭に浮かんだと語っている。
  • 1993年シーズンについて、原田はテレビ東京の総集編内のインタビューにて、「ライダーとしてはいいシーズンだが、人間としてはつらいシーズン」と語った。

戦績

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  • 1988年 - 全日本ロードレース選手権ジュニア125ランキング12位
  • 1989年 - 全日本ロードレース選手権国際A級125ランキング15位
  • 1990年 - 全日本ロードレース選手権国際A級125ランキング2位
  • 1991年 - ロードレース世界選手権GP125ランキング10位(モトバム・レーシングサプライ/ホンダRS125R)
  • 1992年 - ロードレース世界選手権GP125ランキング10位(モトバム・レーシングサプライ/ホンダRS125R)
ロードレース世界選手権GP250ドイツ大会7位(チームラッキーストライクスズキ/スズキRGV-γ)
  • 1993年 - ロードレース世界選手権GP250ノーポイント(ケーユー・レーシングサプライ/スズキRGV-γ)

主なレース戦歴

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ロードレース世界選手権

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1988年から1992年までのポイントシステム:

順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
ポイント 20 17 15 13 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1

1993年以降のポイントシステム:

順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
ポイント 25 20 16 13 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1

(key)(太字ポールポジション斜体ファステストラップ

クラス チーム マシン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ポイント 順位 勝利数
1990年 125cc ホンダ RS125R JPN
13
USA
-
ESP
-
NAT
-
GER
-
AUT
-
YUG
-
NED
-
BEL
-
FRA
-
GBR
-
SWE
-
CZE
-
HUN
-
AUS
-
3 34位 0
1991年 125cc ホンダ RS125R JPN
12
AUS
-
USA
-
ESP
21
ITA
6
GER
9
AUT
12
EUR
Ret
NED
15
FRA
8
GBR
Ret
RSM
Ret
CZE
5
VDM
-
MAL
3
60 10位 0
1992年 125cc ホンダ RS125R JPN
3
AUS
4
MAL
Ret
ESP
5
ITA
10
EUR
9
GER
9
NED
Ret
HUN
4
FRA
8
GBR
10
BRA
8
RSA
Ret
52 10位 0
250cc スズキ RGV-γ JPN
-
AUS
-
MAL
-
ESP
-
ITA
-
EUR
-
GER
7
NED
-
HUN
-
FRA
-
GBR
-
BRA
-
RSA
-
4 18位 0
1993年 250cc スズキ RGV-γ AUS
21
MAL
Ret
JPN
28
ESP
DNS
AUT
-
GER
-
NED
-
EUR
-
RSM
-
GBR
-
CZE
-
ITA
-
USA
-
FIM
-
0 - 0

鈴鹿8時間耐久ロードレース

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チーム ペアライダー 車番 マシン 予選順位 予選タイム 決勝順位 周回数
1990 アコムスポーツ KISS Racing   伊藤巧 61 ホンダ・VFR750R RC30 47 2'20"987 41位 180

注釈

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  1. ^ Nobuyuki Wakai
  2. ^ 片山敬済が、1977年に350ccクラスでチャンピオンとなって以来。厳密には片山は韓国国籍だが、日本生まれの日本育ちであり、競技上は完全に日本人として活動していた。