花柳はるみ
花柳 はるみ(はなやぎ はるみ、明治29年(1896年)2月24日 - 昭和37年(1962年)10月11日)は、日本の女優である。本名は糟谷 いし(かすや いし)。「築地小劇場」で知られる新劇の女優であり、「日本映画の女優第1号」として知られる。
はなやぎ はるみ 花柳 はるみ | |
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『深山の乙女』、1919年、24歳。 | |
本名 | 糟谷 いし(かすや - ) |
生年月日 | 1896年2月24日 |
没年月日 | 1962年10月11日(66歳没) |
出生地 | 日本 茨城県鹿島郡豊津村大船津(現在の同県鹿嶋市大船津) |
死没地 | 日本 愛知県知多郡常滑町(現在の同県常滑市) |
職業 | 女優 |
ジャンル | 新劇、劇映画(現代劇、サイレント映画) |
活動期間 | 1919年 - 1930年前後 |
配偶者 | 瀧田英二 |
著名な家族 |
滝田文彦 (長男) 瀧田あゆち (長女) |
主な作品 | |
『深山の乙女』 『生の輝き』 |
来歴・人物
編集1896年(明治29年)2月24日、茨城県鹿島郡豊津村大船津(現鹿嶋市大船津)に生まれる。上京し、東京市立麹町高等女学校(現・麹町学園女子高等学校)を卒業。
第一期研究生として、1913年(大正2年)に島村抱月、松井須磨子の「芸術座」に参加、1915年(大正4年)、ツルゲーネフの『その前夜』で舞台女優としてデビュー。
1919年(大正8年)、23歳のとき、「天然色活動写真」(天活)の社員であり、映画評論誌「キネマレコード」同人の映画理論家、帰山教正の実験作『深山の乙女』および『生の輝き』(いずれも現代劇)に、村田実、青山杉作、近藤伊与吉といった新劇の劇団「踏路社」の主要メンバーとともに参加、主演に抜擢される。両作は、同年9月13日に同日公開された。
帰山は第3作『白菊物語』から「映画芸術協会」を名乗り、日本最初の芸術映画プロダクションとして活動を開始[1]。従来の映画界の歌舞伎同様の「女形」を排し、「女優」を初めてスクリーンに映し出したことで、これらの帰山作品は歴史に名を残すこととなる。
映画女優としては帰山監督作3本に主演(1919年 - 1920年)、1920年に村田が根津新とともに移籍していた松竹蒲田撮影所で、1921年、村田の映画監督転向第4作『奉仕の薔薇』に主演、同作は同年7月21日に公開される。また同年、高松豊次郎の「活動写真資料研究会」で山根幹人監督の『収穫』に主演、11月21日に「浅草大東京」ほかで公開する。映画出演はこの5本のみ、すべて無声映画の時代であった。
畑中蓼坡の「新劇協会」に参加、帝国ホテル演芸場などの舞台に立つ。1924年(大正13年)の土方与志と小山内薫の「築地小劇場」に参加。1928年(昭和3年)末の小山内の急逝をもって同劇団は分裂へ向かう。当時デビューした原泉に旧芸名「原泉子」を命名したのははるみである[2]。
またそのころ、愛知県知多郡常滑町(現常滑市)の実業家の瀧田英二と結婚。長男文彦、長女あゆちをもうける。文彦は東京大学仏文科を卒業、のちに同大教養学部教授となり翻訳家としてボリス・ヴィアンやレイモン・クノーの翻訳で知られ、あゆちは東京大学法学部を卒業、日本航空に入社、日本のキャリアウーマンの先駆的な存在となった[3]。
はるみが嫁いだ家は、2000年(平成12年)に市の指定文化財となり、「廻船問屋瀧田家」(常滑市栄町4丁目75番地)として復元、有料公開されている。
フィルモグラフィ
編集- 『深山の乙女』 (大正8年9月) : 監督・脚本・撮影帰山教正、原作水沢武彦(帰山教正)、撮影助手青島順一郎、字幕野川達、共演村田実、近藤伊与吉、青山杉作
- 『生の輝き』 (大正8年9月) : 監督・脚本・出演帰山教正、原作水沢武彦、撮影大森勝、字幕野川達、助手鈴木照次郎、共演村田実、青山杉作、近藤伊与吉、夏川静江
- 『白菊物語』 (大正9年7月、映画芸術協会) : 監督・原作・脚本帰山教正、撮影・出演大森勝、字幕吉田謙吉、共演青山杉作、近藤伊与吉、村田実、吾妻光、白鳥絢子、饒平名紀芳、根津新
- 『奉仕の薔薇』 (大正10年、松竹蒲田撮影所) : 監督・原作・脚本村田実、撮影水谷文次郎、共演諸口十九、岩田祐吉、関根達発
- 『収穫』 (大正10年、活動写真資料研究会) : 監督・脚本山根幹人、共演中川信水、井上麗三、中井正橘、池田園子
関連事項
編集脚注
編集- ^ 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社)
- ^ 「にっぽんのお婆ぁちゃん女優データベース」サイト内の「原泉フィルモグラフィ」の記述による。
- ^ 常滑市の公式サイト内の瀧田あゆちの部屋「瀧田あゆちと日本航空」の記述による。