花川環
花川 環(はながわ たまき、1889年5月15日[1] - 没年不詳)は、日本の元女優。三重県南牟婁郡木本町(現:熊野市)出身。本名は勝見 みね子(旧姓・島田 みね子)。夫は俳優の勝見庸太郎である。
はながわ たまき 花川 環 | |
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本名 | 勝見 みね子 かつみ みねこ |
生年月日 | 1889年5月15日 |
没年月日 | 不詳年 |
出生地 | 日本 三重県南牟婁郡木本町(現在の同県熊野市) |
国籍 | 日本 |
職業 | 女優 |
活動期間 | 1921年 - 1923年 |
活動内容 | 1921年 松竹蒲田入社 |
配偶者 | 勝見庸太郎 |
人物・来歴
編集旅劇団一座の女優であったが、大正10年(1921年)に松竹蒲田にスカウトされ入社。同年『黒き潮(死刑囚の娘)』で映画デビューする。代表作は『母いづこ』『マイフレンド』など。当時は母親役や年配の婦人の役が多かった。
大正12年(1923年)頃に同所属俳優の勝見庸太郎と結婚し、女優業を引退。その後は勝見とともに勝見庸太郎プロダクションを設立し、彼の映画制作・監督業を支えた。
没年月日は伝わっていないが、夫の勝見庸太郎の死去(1962年)以前には既に亡くなっているという。
フィルモグラフィ
編集- 『黒き潮(死刑囚の娘)』 : 監督賀古残夢、1921年
- 『愛の小唄』 : 監督田村宇一郎 、1921年
- 『赤光』 : 監督池田義臣、1921年
- 『母いづこ』 : 監督牛原虚彦、1922年
- 『海の極みまで』 : 監督賀古残夢、1922年
- 『乳姉妹』 : 監督池田義臣、1922年
- 『母の心』 : 監督池田義臣、1922年
- 『屑七の家』 : 監督島津保次郎、1922年
- 『想夫憐』 : 監督池田義臣、1922年
- 『傷める小鳥』 : 監督牛原虚彦、1922年
- 『黄金』 : 監督島津保次郎、1922年
- 『マイフレンド』 : 監督池田義臣、1923年
- 『死に行く妻』 : 監督野村芳亭、1923年
- 『山の線路番』 : 監督島津保次郎、1923年
- 『紺屋の娘』 : 監督野村芳亭、1923年
- 『笑へ若者』 : 監督野村芳亭、1923年
- 『なすな恋』 : 監督野村芳亭、1923年
- 『自活する女』 : 監督島津保次郎、1923年
- 『兄弟』 : 監督島津保次郎、1923年
- 『人性の愛』 : 監督牛原虚彦、1923年
- 『黒装束』 : 監督島津保次郎、1923年
- 『家なき女』 : 監督大久保忠素、1923年
- 『懐かしの花』 : 監督牛原虚彦、1923年
- 『霧の小路』 : 監督池田義信、1923年
- 『焔の行方』 : 監督池田義信、1923年
参考文献
編集- 明治~昭和初期 俳優名鑑集成 第7巻 『日本映画俳優名鑑 大正13年版』<復刻版> (2005年8月 ゆまに書房)ISBN 4843319252
- 日本映画人名事典・女優篇下巻(キネマ旬報社・1995年)ISBN 4873761417