芦原千津子
芦原 千津子(あしはら ちづこ、1918年11月14日[1] - 2009年1月5日[1])は、松竹楽劇部(改名を経て、OSK日本歌劇団)娘役スター。
あしはら ちづこ 芦原 千津子 | |
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本名 | 木村 たみ |
生年月日 | 1918年11月14日 |
没年月日 | 2009年1月5日(90歳没) |
出生地 | 大阪府大阪市 |
出身地 | 大阪府大阪市 |
死没地 | 大阪府大阪市 |
職業 | 舞台俳優(娘役) |
ジャンル | 少女歌劇 |
活動期間 | 1931年-1973年 |
所属劇団 | 松竹楽劇部(のちOSK日本歌劇団) |
生涯
編集1918年(大正7年)生まれ。大阪府大阪市の住吉大社の近くで生まれ育つ[2]。
1931年(昭和6年)、松竹楽劇部に入団[1]。秋月恵美子によれば、芦原は「天才肌」であり、(稽古熱心だった秋月に比し)短時間で振付をマスターした[3]。またダンスに専念する姿勢でファンに「愛想をしない人」であった[4]。
1935年(昭和10年)、大阪劇場『アベック・トア』で秋月とのコンビで起用されるようになる[4]。その後1937年(昭和12年)以降は、秋月が男役メインとなり、二人は男役・娘役ペアでコンビを組むようになった[4]。秋月・芦原は「実力の大阪方」として活躍を見せ、ファン及び評論家から絶大な支持を得た[5]。
第二次世界大戦後も、二人は「100万ドルのゴールデンコンビ」と謳われ、戦後のレビュー黄金期の立役者となった[6]。1965年(昭和40年)のソビエト連邦公演など、海外公演にも複数回参加した[7]。
1973年(昭和48年)3月、『50周年記念祭典』を最後に、秋月と共に静かに現役を引退する[8]。在団42年のうち35年間にわたり、主演級のスターとして活躍した[8]。
晩年は、出生地の住吉大社近傍で暮らし、OSK日本歌劇団の存続運動にも協力した[2][注釈 1]。2009年(平成21年)1月5日、大阪市の自宅にて、心筋梗塞のため満90歳で逝去した[1][9]。高齢になっても気位が高く、逝去した際も往年の名スターらしく、顔を上げ座ったままの姿勢だったという[10]。
参考文献
編集- OSK日本歌劇団100年周年記念史編集委員会『OSK日本歌劇団100周年記念年史 桜咲く国~OSKレビューの100年~』OSK日本歌劇団、2023年3月31日。