興善寺 (奈良市十輪院畑町)

奈良市十輪院畑町にある寺院

興善寺(こうぜんじ)は、奈良市十輪院畑町にある、浄土宗の寺院。山号は法輪山[1]

興善寺

興善寺
所在地 奈良県奈良市十輪院畑町12
位置 北緯34度40分35.34秒 東経135度50分0.13秒 / 北緯34.6764833度 東経135.8333694度 / 34.6764833; 135.8333694座標: 北緯34度40分35.34秒 東経135度50分0.13秒 / 北緯34.6764833度 東経135.8333694度 / 34.6764833; 135.8333694
山号 法林山(扁額)
法輪山
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
中興年 天正年間
中興 慶誉和尚
正式名 法林山興善寺
文化財 源空、証空等自筆消息2巻(附:木造阿弥陀如来立像、漆塗筒形納骨器)(重要文化財)
法人番号 8150005000122 ウィキデータを編集
興善寺 (奈良市十輪院畑町)の位置(奈良市内)
興善寺 (奈良市十輪院畑町)
興善寺 (奈良市十輪院畑町)の位置(奈良県内)
興善寺 (奈良市十輪院畑町)
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歴史

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創建の詳細は不詳だが、古くは元興寺の「奥之院奥之坊」であったといわれ、元興寺の子院であったと伝わる[1]天正年間に慶誉和尚が堂を建立して中興し、知恩院に属した[1]慶長8年(1603年)3月9日、興善寺内地子の赦免状が出されている[1]

伽藍

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本堂

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桁行柱間三間(実長五間)、梁行柱間五間(実長五間)、広縁を巡らせている[2]。寄棟造・本瓦葺、正面に一間の向拝を持つ[2]慶安2年(1649年)、第7世長誉上人による再建である[1]

本堂脇壇には、善導大師円光大師の両祖師像と、7世長誉上人の木彫像を祀る[2]

観音堂

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奈良坊目拙解にも存在が残されている[2]。中央に木造阿弥陀如来立像、左に十一面観音立像、役行者像、弘法大師像、右に不動明王像を祀る[2]。このうち阿弥陀像、役行者像等はもと公納堂にあったもので、現在も毎月公納堂町の人々が参詣する[2]

納骨位牌堂

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平成4年まで、鐘楼があった。鐘楼は梵鐘が戦時供出されたため堂のみが残っていた[2]が、納骨堂に建て替えられた。内部には石仏の阿弥陀三尊像を祀っている。

文化財

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重要文化財

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  • 源空、証空等自筆消息 2巻(附:木造阿弥陀如来立像1躯、漆塗筒形納骨器1箇)
本尊の木造阿弥陀如来立像の像内より、1962年昭和37年)に源空証空らの自筆消息が発見された[2]。紙背に結縁交名が記され、別に漆塗筒形納骨器も取り出され、本尊含めいずれも重要文化財に指定された[2][3]。源空の書状は絶無といわれており、証空らの真筆も極めて稀であったため、非常に重要な発見であった[2]
本尊の右足枘内外側に墨痕がかすかに見られ、原銘の一部と見られている[2]。左足枘内外側には、この阿弥陀像がもと東山内田原(今の奈良市都祁辺り[4])にあったと後筆で銘記されている[2]。紀年は「◻︎正十七年四月廿◻︎日」と読め、地元を離れる際に記されたと思われるが、永正17年(1520年)か天正17年(1589年)かははっきりしない[2]

その他

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  • 石造阿弥陀三尊像
鎌倉時代の造立である[2]大きな阿弥陀石仏を、位牌納骨堂に安置している。中尊に阿弥陀如来、両脇侍に観音菩薩地蔵菩薩を配した三尊仏は珍しく、室町時代に多く見られた阿弥陀・地蔵を併刻した双石仏の先駆とも見られる[2]

出典

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  1. ^ a b c d e 角川日本歴史大辞典 29巻 奈良県 p.439
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 奈良市史 社寺編 p.115
  3. ^ 「古文書」として重要文化財に指定されており、阿弥陀如来像は重要文化財の「附」(つけたり)扱いになっている。
  4. ^ 興善寺公式サイト 起源

参考文献

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  • 角川地名大百科辞典編纂委員会編「角川日本地名大辞典29 奈良県」、角川書店、1990年3月、ISBN 9784040012902
  • 奈良市史編集審議会編『奈良市史 社寺編』、吉川弘文館、1985

関連項目

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外部リンク

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