脇方駅
かつて北海道虻田郡に存在した胆振線の廃駅
脇方駅(わきかたえき)は、北海道虻田郡京極町字脇方に所在した日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である[1]。事務管理コードは▲131931[2]。
脇方駅 | |
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わきかた Wakikata | |
◄京極 (7.5 km) | |
所在地 | 北海道虻田郡京極町字脇方 |
所属事業者 | 日本国有鉄道(国鉄) |
所属路線 | 胆振線(脇方支線) |
キロ程 | 7.5 km(京極起点) |
電報略号 | ワキ |
駅構造 | 地上駅 |
ホーム | 1面1線 |
開業年月日 | 1920年(大正9年)7月15日[1] |
廃止年月日 | 1970年(昭和45年)11月1日[1] |
備考 | 脇方鉱山の閉山に伴い廃駅 |
歴史
編集国有鉄道京極軽便線の終着駅として開業した駅で、倶知安鉱山から産出する鉄鉱石の輸送のために設置された駅である。戦時中は特需産業として鉄道の需要も増え、戦後になってからも乗車人員が年間6万人、貨物輸送量も6万t前後の好況が続いた[3]。しかし、倶知安鉱山が閉山すると輸送量は客貨ともに激減し、1970年(昭和45年)に廃駅となった。鉱山の閉山に伴い、郵便局は廃局、小中学校も廃校となり、廃駅時には5戸8人の農家が残っていた[3]。
年表
編集- 1920年(大正9年)7月15日:京極軽便線京極 - 当駅間開通により開業(一般駅)[1][4]。
- 1922年(大正11年)9月2日:京極線に改称。
- 1940年(昭和15年):同年冬に流雪溝を設置[5]。
- 当駅はワッカタサップ川と白井川に挟まれた中段にあるため、流雪溝の設置に適していた。これは北海道内でもかなり初期の設置であり、除雪に必要な人足が大幅に縮減された[5]。
- 1944年(昭和19年)7月1日:胆振線に編入。
- 1948年(昭和23年)5月16日:脇方大火により類焼。駅舎、機関庫、官舎等焼失[6]。
- 1949年(昭和24年)2月:駅舎等新築竣工[6]。
- 1969年(昭和44年)10月31日:倶知安鉱山が閉山[7]。
- 1970年(昭和45年)11月1日:廃止[3][1][4]。
駅名の由来
編集地名より。同地を流れるワッカタサップ川のアイヌ語名「ワッカタサㇷ゚(wakka-ta-sap)」の上半部に字をあてたものである[8]。
「ワッカタサㇷ゚(wakka-ta-sap)」の語義は「水を・汲みに・下る処」とされているが、これについてアイヌ語研究者の山田秀三は「サㇷ゚(sap)」が「サン(san)」(出る・下る)の複数形であることを踏まえ、「水が・そこで・ごちゃごちゃ流れ出る」の意ではないかと推測している[8]。
駅周辺
編集現況
編集- 駅周辺は道道784号黒橋京極線の起点になっている。
脚注
編集- ^ a b c d e 石野哲 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』(初版)JTB、1998年10月1日、860頁。ISBN 978-4-533-02980-6。
- ^ 日本国有鉄道営業局総務課 編『停車場一覧 昭和41年3月現在』日本国有鉄道、1966年、227頁。doi:10.11501/1873236 。2022年12月10日閲覧。
- ^ a b c “ひっそりと最後の列車 胆振線京極−脇方間あす廃止 “冬は孤島ですョ” 脇方吹雪のマチに5戸残る”. 北海道新聞夕刊. (1970年10月31日)
- ^ a b 『北海道 駅名の起源』(第1版)日本国有鉄道北海道総局、札幌市、1973年3月25日、224頁。ASIN B000J9RBUY。
- ^ a b 北海道保線史編集委員会 編『北海道保線のあゆみ』日本鉄道施設協会北海道支部、1972年10月14日、270-272頁。
- ^ a b 京極町史 昭和52年3月発行 P828。
- ^ 日鉄鉱業40年史 昭和54年11月発行 P288-289 及び年表。
- ^ a b 山田秀三『北海道の地名』(2版)草風館、浦安市〈アイヌ語地名の研究 山田秀三著作集 別巻〉、2018年11月30日、467頁。ISBN 978-4-88323-114-0。
隣の駅
編集- 日本国有鉄道
- 胆振線(脇方支線)
- 京極駅 - 脇方駅
関連項目
編集外部リンク
編集- 日鉄倶知安鉱山跡 - 北海道文化資源データベース(2006年版 / 2015年9月2日閲覧)