胡瑛 (雲南)
胡 瑛(こ えい)は、中華民国の軍人。雲南派(滇軍)の有力指揮官。民国初期においては、孫文(孫中山)を補佐した。字は蘊珊。なお、同じく中国同盟会に属し、後に籌安会の六君子の1人となった胡瑛は、同姓同名の別人である。
胡瑛 | |
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プロフィール | |
出生: |
1889年10月1日 (清光緒15年9月初7日) |
死去: |
1961年4月3日 中華人民共和国雲南省昆明市 |
出身地: | 清雲南省順寧府雲州 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 胡瑛 |
簡体字: | 胡瑛 |
拼音: | Hú Yīng |
ラテン字: | Hu Ying |
注音二式: | Hú Yīng |
和名表記: | こ えい |
発音転記: | フー イン |
事跡
編集初期の活動
編集雲南優級師範学堂を経て、雲南陸軍講武堂に入学し、特別班に編入された。また、この時に、中国同盟会に加入している。1911年(宣統3年)10月の昆明重九起義(辛亥革命)に革命派として参加した。
1912年(民国元年)3月、唐継尭に随従して貴州入りし、以後、黔軍において昇進した。護国戦争(第三革命)で軍功をあげ、1916年(民国5年)6月には黔軍第3混成旅旅長となっている。その後、黔軍の王文華の下で護法戦争に参戦する。1920年(民国9年)、唐継尭・王文華から、重慶衛戍司令に任命された。
同年に貴州で民九事変[1]が発生したが、胡瑛はこれに参加を望まなかった。1921年(民国10年)、胡瑛は孫文の援桂に参加し、援桂黔軍総司令に任命されている。この時、新広西派の李宗仁・白崇禧と良く連携し、交流が深まった。
しかし1922年(民国11年)、唐継尭の雲南復権に際して谷正倫による孫文への讒言があり、胡瑛は孫から猜疑されてしまう。胡は、やむなく雲南へ戻り、一時引退した。その後、唐の下で佽飛軍[2]第4軍軍長兼雲南憲兵司令として復帰している。
竜雲救出
編集1927年(民国16年)2月、唐継尭が竜雲・胡若愚ら4鎮守使の兵変で失脚した。胡瑛は雲南省務委員会候補委員に任命される。同年6月、胡若愚が竜を奇襲、捕縛する事件が発生し、再び雲南省内は混乱に陥る。竜配下の盧漢らの要請を受けた胡瑛は、国民革命軍第38軍軍長[3]として擁立されることに同意した。胡瑛は昆明に迫って胡若愚に竜を解放させ、これを復権させている。さらに後には、竜のために胡若愚らの軍を追撃、駆逐し、その雲南支配の確立に貢献した。
竜雲による雲南平定後は、胡瑛は前線指揮官の地位から退く。以後、20年以上にわたり、雲南省政府委員を務めた。その一方で国民政府参軍処参軍、雲南金融整理委員会委員長、制憲国民大会代表、行憲国民大会代表などを歴任している。日中戦争後の1945年(民国34年)10月に、竜が中央軍に昆明で包囲され、雲南省政府主席から罷免されそうになると、蔣介石の依頼で胡瑛がその投降を説得する役となった。
1949年(民国38年)1月、胡瑛は完全に引退し、昆明郊外の温泉郷に隠居した。国民政府からの台湾行の誘いも断り、中華人民共和国成立後もそのまま同地に留まっている。
1961年4月3日、隠居先で胡瑛は病没した。享年73(満71歳)。
注
編集参考文献
編集- 陳開国ほか「胡瑛」劉寿林ほか編『民国高級将領列伝 7』解放軍出版社、1999年。ISBN 7-5065-2292-6。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。