胡毓坤
胡 毓坤(こ いくこん)は中華民国の軍人。北京政府、奉天派の軍人で、後に南京国民政府(汪兆銘政権)に参加した。字は凌塵[4]。
胡毓坤 | |
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『中国紳士録 第二版』(1942年)[1] | |
プロフィール | |
出生: | 1895年(清光緒21年)[2] |
死去: |
1946年(民国35年)6月24日 中華民国南京市 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府海城県[3] |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 胡毓坤 |
簡体字: | 胡毓坤 |
拼音: | Hú Yùkūn |
ラテン字: | Hu Yü-k'un |
和名表記: | こ いくこん |
発音転記: | フー ユークン |
事績
編集奉天派の軍人として経歴を重ねる。1925年(民国14年)、李景林率いる第1師で第4混成旅旅長となった。翌年、李が反張作霖の動きを見せたために武装解除され、失脚する。李の部隊は安国軍第16軍・第17軍に再編され、胡毓坤が第17軍軍長に任命された[5]。
1928年(民国17年)、張学良が父を後継すると、胡毓坤は東北辺防司令長官公署参議官に転じる。翌年、張学良による中東鉄路の接収強行に端を発して、奉天派とソ連との紛争が発生した。このとき、胡は防俄軍第2軍軍長としてソ連軍に応戦している。1930年(民国19年)、中原大戦が勃発すると、胡は討逆軍第3軍軍長に任命され、張学良に従って関内に入り反蔣介石軍と交戦している[5]。
1933年(民国22年)5月、国民政府軍事委員会北平分会委員に任ぜられる。1935年(民国24年)4月、陸軍中将銜を授与された。同年12月、冀察政務委員会委員に任ぜられている。1936年(民国25年)12月、西安事変が勃発した際には、胡毓坤は張学良による蔣介石の捕縛を支持した。そのため、事変解決後に張が逮捕されると、胡はこれに不満を抱くようになる[5]。
そして1938年(民国27年)、鮑文樾の誘いを受けた胡毓坤は、以後、汪兆銘の反蔣介石活動に与するようになる。1940年(民国29年)3月、汪兆銘政権が樹立されると、胡は軍事委員会委員に任命される。翌月、蘇豫辺区綏靖司令となった。1943年(民国32年)10月、軍事委員会駐華北委員となり、さらに陸軍上将を授与されている。翌年3月、駐華北軍務長官に任ぜられた。1945年(民国34年)4月、軍事委員会参謀総長に任ぜられた。翌月、軍令部部長にもなっている[5]。
日本敗北後に、胡毓坤は蔣介石の国民政府に逮捕される。漢奸の罪により死刑判決を受けると、1946年(民国35年)6月24日、南京雨花台で楊揆一・凌霄と共に銃殺刑に処された[6]。享年52。
注
編集参考文献
編集- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 毎日新聞社編『毎日年鑑1947』毎日新聞社、1947年。
- 益井康一『裁かれる汪政権 中国漢奸裁判秘録』植村書店、1948年。
- 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 第12巻』創元社、1940年。
- 『中国紳士録 第二版』満蒙資料協会、1942年。
南京国民政府(汪兆銘政権)
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