肥田頼常
肥田 頼常(ひだ よりつね、元文5年(1740年) - 没年不詳)は、江戸時代後期の旗本。通称、新二郎、讃左衛門、十郎兵衛。従五位下・豊後守。家禄3000石。
生涯
編集祖先は美濃国の土岐肥田氏で肥田忠政の孫、徳川秀忠旗本肥田忠頼の家系にあたる。
加藤正景の三男で、母は肥田頼時の娘。肥田頼行が重病だったためその養子となった。子に肥田頼珍、内藤忠貫、肥田頼直がいる。
宝暦6年(1756年)12月3日に遺跡を継いだ。安永5年(1776年)8月5日に表右筆、天明4年(1784年)7月23日に奥右筆、寛政3年(1791年)4月11日に賄頭となり、寛政4年(1792年)8月5日より台所頭を兼任する。寛政5年(1793年)6月2日に勘定吟味役となり、寛政10年(1798年)日光東照宮御霊屋普請の功績により黄金を贈られる[1]。
寛政11年(1799年)12月24日から文化3年(1806年)1月まで長崎奉行を務め、治安安定経済復興のため製陶所を設け天草焼、のち亀山焼を作る。在任中、ロシアのレザノフが長崎に来航、成瀬正定や遠山景晋と共に事態を無事終息。
文化3年(1806年)1月30日に小普請奉行、文化5年(1808年)7月12日に作事奉行となる。文化7年(1810年)12月24日に勘定奉行に就任した。文化12年(1815年)6月17日に西丸留守居、文政3年(1820年)6月28日より槍奉行となるが、同年8月28日に御役御免となった[2]。
脚注
編集関連項目
編集参考文献
編集- 日本人名大辞典(講談社)