聖パンテレイモン修道院 (オフリド)
聖パンテレイモン修道院 (せいパンテレイモンしゅうどういん、マケドニア語: Свети Пантелеjмон(スヴェーティ・パンテレイモン、発音: [pantɛlɛjˈmɔn]);ギリシア語: Άγιος Παντελεήμων)は、マケドニア共和国オフリド、プラオシュニクに所在する修道院である。聖クリメントにより建造され、教育の中心として大きな役割を果たした。
聖パンテレイモン修道院 | |
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Свети Пантелејмон | |
修道院の外観。 | |
基本情報 | |
所在地 | マケドニア共和国オフリド |
座標 | 北緯41度06分45秒 東経20度47分27秒 / 北緯41.1125度 東経20.7909度座標: 北緯41度06分45秒 東経20度47分27秒 / 北緯41.1125度 東経20.7909度 |
宗教 | マケドニア正教会 |
地区 | プラオシュニク |
建設 | |
建築家 | オフリドの聖クリメント |
形式 | 修道院 |
様式 | ビザンティン建築 |
収容人数 | 3,000 |
沿革
編集開設
編集886年、ボリス1世の求めにより、聖キリルと聖メフォディの弟子である聖クリメントが布教活動のためオフリドに移住した。893年には二人の別の弟子である聖ナウムもオフリドに移住している[1][2]。
893年、聖クリメントにより、この修道院が建造された[1]。聖クリメントは、この修道院に学校を開き、文字、文学やスラヴ典礼の教育を行った[1][2]。この修道院で、聖クリメントは弟子に対し、グラゴル文字の一種であるキリル文字を教えていたといわれている[注 1][1]。この学校では3,500人が学んだとされており[1]、これらの弟子たちがスラヴの文芸を広め、この修道院は文化の中心となった[3][4]。この修道院はヨーロッパで最古の大学であるとする説もある[注 2][5]。
916年、聖クリメントは死去し、この修道院の地下聖堂に埋葬された[6][7]。
モスクへの改造
編集14世紀末にオフリドはオスマン帝国の支配下に入った。このため、15世紀には、この修道院はオスマン帝国によりモスクへと改造された。その後16世紀初期には、オスマン帝国は破壊された教会や修道院の再建を認めるようになり、この修道院も再建された。しかし、この修道院は16世紀末期または17世紀初期に再度破壊され、イマレット・モスクと呼ばれる別のモスクがオスマン帝国により建てられた[注 3][6][8]。
発掘と再建
編集1943年にこの修道院の発掘が初めて行われ、地下のトンネルと地下聖堂の存在が明らかになった[要出典]。1965年にも発掘が行われている[6]。
1999年、イマレット・モスクの残骸を取り除いての大規模な発掘が行われた[6]。発掘により、4世紀から6世紀の間に建てられたとみられる、5つの棟から成るバシリカの洗礼場が発見された[注 4]。洗礼場のモザイクの床にはスワスティカの模様が付されていた。このバシリカは、十二使徒の一人であるパウロに捧げられたものであると考えられている[3]。
続いて再建作業が開始され、2002年7月末には修道院の建物が完全に再建された[4]。部分的に破壊された鐘楼も、修道院の右側に再建され、教会内部の床も大理石で再建された[要出典]。
2007年10月10日には発掘により、約2,383枚のヴェネツィア共和国の貨幣が発見された。考古学者パスコ・クズマンは、これらの硬貨はオフリドとヴェネツィアの商業的な結びつきを示すものであり、特に重要なものであると述べている[9]。
建築
編集聖パンテレイモン修道院は、オフリド湖を見下ろす丘に建てられており、この丘は現在はプラオシュニクと呼ばれている。
この修道院は、聖クリメント自身により設計・建築されたといわれている[6]。複数の歴史的な文献によれば、聖クリメントは当初、古い教会を再建することによりこの修道院を建造したが、規模が小さすぎたため、その基礎の上に新しく教会を作り直し、聖パンテレイモンをその守護聖人としたとされている[6][7]。研究者らは、修道院の建築様式および設計から判断するに、聖クリメントはこの修道院を当初から学校としようとしていたと考えている[要出典]。
2002年の再建の際は、修道院の聖性を保つため、もとの修道院の建造に用いられていた資材を使用し、当時の技術に類似した技術により、手作業で行われた。修道院の再建を通じて、機械は、内部を磨くためにしか用いられなかった[5]。修道院の外観には、多数の詳細なモザイク画が描かれている。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e “History”. Municipality of Ohrid. 2017年1月29日閲覧。
- ^ a b c 山田勇「スラヴ文章語について」『香川大学経済論叢』第77巻第4号、香川大学、2005年3月、4頁。
- ^ a b “Cultural Heritage”. Municipality of Ohrid. 2017年1月29日閲覧。
- ^ a b Father Samuel. “Journey to Macedonia, Part II: St. Clement of Ohrid”. 2012年6月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月29日閲覧。
- ^ a b “On Plaosnik – a New Building on Ancient Foundations – Saint Clement’s Temple Resurrects in the New Age”. Nova Makedonija (2002年4月5日). 2012年6月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月29日閲覧。
- ^ a b c d e f <“St. Clement's monastery "St. Pantheleimon"”. 2011年11月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月29日閲覧。
- ^ a b Popović, Mihailo St (2016). “Saint Clement of Ohrid: His Life and Aftermath between Sofia and Skopje”. Institute of History Belgrade Collection of Works (Institute of History Belgrade) 32: 78.
- ^ Popović: 80
- ^ “Archaeology – Depot with Venetian Silver Coins Excavated”. Večer (2007年10月10日). 2012年6月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月29日閲覧。