耶律迭里(やりつ てつり、生年不詳 - 天顕元年11月13日[1]926年12月20日))は、(契丹)の軍人

経歴

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本部夷離菫の耶律楚不魯の子として生まれた。幼いころは病気がちで、耶律阿保機が撻馬戉沙里となると、迭里を可愛がって育てた。神冊6年(921年)、迭里は惕隠となり、阿保機の下で龍軍を率いて阻卜党項を討ち、功績を挙げた。天賛3年(924年)、南院夷離菫となった。南府宰相耶律蘇とともに西南の地の経略にあたった。天顕元年(926年)、渤海国を攻撃して、忽汗城を包囲し、多くの兵を捕殺した。阿保機が死去して述律皇后が称制すると、皇后は大元帥耶律堯骨に帝位を嗣がせようとした。迭里は嫡長の東丹王耶律突欲を立てるよう建言した。東丹王の党与として、獄に下され、拷問を受けた。屈服しなかったため、同年11月に殺害された。

子に耶律安摶があった。

脚注

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  1. ^ 『遼史』巻2, 太祖紀下 天顕元年十一月丙寅条による。

伝記資料

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