耶律弘古 (胡篤堇)
耶律弘古(やりつ こうこ、生年不詳 - 1043年)は、遼(契丹)の政治家・軍人。名は洪古とも書かれる。字は胡篤菫。耶律化哥の弟にあたる。
経歴
編集統和年間、順義軍節度使に累進し、入朝して北面林牙となった。太平元年(1021年)、同中書門下平章事の位を加えられた。彰国軍節度使として出向し、山北道兵馬都部署を兼ねた。武定軍節度使に転じた。太平6年(1026年)、惕隠に任じられた。兄とともに阻卜を討って功績を挙げた。聖宗は臂部を刺して血を採り、弘古と盟を結んで友となったため、弘古の礼遇は特に厚いものがあった。弘古は南府宰相となり、上京留守に転じた。
重熙6年(1037年)、南院大王に転じた。重熙12年(1043年)、于越の位を加えられた。興宗に労をねぎらわれて、再び武定軍節度使となり、まもなく死去した。
伝記資料
編集- 『遼史』巻95 列伝第25