耕余塾
(耕余義塾から転送)
耕余塾/耕余義塾(こうよじゅく)/(こうよぎじゅく)は、神奈川県高座郡羽鳥村(後の明治村。現在の藤沢市)に、明治時代にあった私塾。
神奈川県屈指の中等教育機関であった[1]。漢学、英語、数学、理科、西欧史、法制などを教え、寄宿制、小中学一貫教育の私学で、1887年(明治20年)に「耕余義塾」に改組されると共に、慶應義塾の福沢諭吉の門下生を教員として迎え入れ、久保市三郎らが教鞭を振るい、慶應義塾にならって義塾と校名につけた[2]。自由民権運動が盛んな相武地域という土地柄、自由党の子息が多く在籍した[3]。開設から閉塾までの25年間に千人以上が学んだ[4]。
歴史
編集- 明治5年(1872年)3月 - 羽鳥村の廃寺であった、徳昌院の庫裏を校舎として、名主の三觜八郎右衛門が、小笠原東陽を招いて郷学校読書院を開設する[1][5]。
- 明治5年(1872年)8月 - 学制により、読書院は羽鳥学校(現在の藤沢市立明治小学校)に改称され、生徒の多くはこちらに移ったが、小笠原東陽は、これとは別に読書院を私塾として存続させる。
- 1878年(明治11年) - 入塾者が増加したため、新校舎を落成し、塾名を耕余塾に改め[1]、変則中学となる。
- 1887年(明治20年)8月 - 小笠原東陽が没し、松岡利紀(東陽の娘婿)が塾長となり[4]、耕余義塾に改称する。
- 1896年(明治29年)11月16日 - 耕余義塾卒業生の慶應義塾高等科第三等第一期への無試験編入の契約を結ぶ。
- 1897年(明治30年)9月8日 - 大風で全学舎が倒壊する。
- 1900年(明治33年)8月31日 - 再建できず、閉塾する[5]。
文化財
編集- 藤沢市指定史跡「耕余塾の跡」[5]
主な塾生
編集所在地
編集脚注
編集- ^ a b c d e “藤沢市文化財ハイキングコース「耕余塾・養命寺コース」”. 藤沢市生涯学習部郷土歴史課. 2024年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月2日閲覧。
- ^ “ステンドグラス 各地の義塾”. 慶應義塾. 2023年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月2日閲覧。
- ^ a b c “【吉田茂資料紹介】耕余義塾時代の作文”. 大磯町郷土資料館・旧吉田茂邸サイト. 2024年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月2日閲覧。
- ^ a b c d “耕餘塾について”. 白石記念館. 2023年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月2日閲覧。
- ^ a b c “耕余塾跡”. 藤沢市観光公式ホームページ. 2024年5月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月2日閲覧。
- ^ “耕余塾と三觜家 明治市民センターで企画展”. タウンニュース藤沢版 (2020年11月20日). 2025年1月2日閲覧。
関連項目
編集参考文献
編集関連文献
編集- 高野修 著、(続)藤沢市史編さん委員会 編『小笠原東陽と耕余塾に学んだ人々』藤沢市文書館〈藤沢市史ブックレット4〉、2013年3月。全国書誌番号:22280287。
- 明治地区郷土づくり推進会議歴史文化部会 編『耕余塾を開いた先生 小笠原東陽物語』明治地区郷土づくり推進会議、2017年8月。
- 村上きょうこ『名宰相吉田茂と学舎耕余塾』風人社、2018年11月。ISBN 978-4-938643-84-3。
外部リンク
編集- 吉田茂が学んだ学校!藤沢市羽鳥の名門私塾「耕余塾」と周辺散歩 - はじめよう藤沢・辻堂ライフ
- 耕余塾跡 - 藤沢市観光公式ホームページ