翟文選
中華民国の政治家
翟 文選(てき ぶんせん)は中華民国の政治家。北京政府、奉天派に属した。字は熙人。
翟文選 | |
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『改訂 現代支那人名鑑』(1928年) | |
プロフィール | |
出生: | 1878年(清光緒4年) |
死去: |
1950年4月23日 中華人民共和国北京市 |
出身地: | 清吉林将軍管轄区阿勒楚喀副都統管轄区双城堡[1] |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 翟文選 |
簡体字: | 翟文选 |
拼音: | Zhái Wénxuǎn |
ラテン字: | Chai Wen-hsüan |
和名表記: | てき ぶんせん |
発音転記: | ジャイ ウェンシュエン |
事跡
編集1901年、1902年(光緒27年、28年)に、辛丑、壬寅併科挙人となる。以後、黒竜江将軍府全省文案処提調官、安達庁撫民通判、呼倫庁撫民同知を歴任した。
中華民国成立後の1913年(民国2年)、黒竜江警察庁庁長に任命された。以後、張作霖率いる奉天派の一員となる。1917年(民国5年)、参議院議員に選出される。1920年(民国9年)9月、東三省塩運使に任ぜられた。1928年(民国17年)、東三省保安会委員となっている。
張作霖死後の同年7月、翟文選は張学良から奉天省長に任命された。同年12月の易幟を経て奉天省が遼寧省に改組され、翟がそのまま遼寧省政府主席に留任している。1929年(民国18年)1月、東北政務委員会委員と国民政府首都建設委員会委員も兼ねた。1930年(民国19年)1月に、省政府主席を辞任する。後に万国道徳総会理事となった。
満州事変勃発後、翟文選は関東軍から満州国参加を呼びかけられた。しかし、翟はこれを拒否して天津に隠居する。後に北平に移った。晩年は仏門に入り、邸内で修行していたとされる。
1950年4月23日、死去。享年73。
注
編集参考文献
編集- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 『双城県志』 ハルビン地情網(ハルピン市人民政府地方志弁公室ホームページ)
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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