美和神社 (長野市)
美和神社(みわじんじゃ)は、長野県長野市三輪にある神社。式内社で、旧社格は県社。善光寺七社の一社。
美和神社 | |
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所在地 | 長野県長野市大字三輪字相ノ木東514 |
位置 | 北緯36度39分47.04秒 東経138度12分11.72秒 / 北緯36.6630667度 東経138.2032556度座標: 北緯36度39分47.04秒 東経138度12分11.72秒 / 北緯36.6630667度 東経138.2032556度 |
主祭神 | 大物主命 |
社格等 |
式内社(小) 旧県社 |
創建 | 不詳 |
本殿の様式 | 一間社流造 |
札所等 | 善光寺七社 |
例祭 |
4月27日(春季例大祭) 9月26日・27日(秋季例大祭) |
主な神事 | 越年祭(12月16日) |
地図 |
概要
編集長野市街地にほど近い住宅街の駅前にあるが、境内は森閑としている。特徴的な三ツ鳥居(三輪鳥居)が立ち、境内には100近い石祠群(境内百末社)が立ち並ぶ。この石祠群の神々に祝膳を捧げる越年祭は、他に類を見ない特殊神事である。
本郷、相ノ木東、相ノ木西、横山、淀ヶ橋、三輪田町、荒屋の7町で祭事を行っている。
祭神
編集- 主祭神
- 大物主命 (おおものぬしのみこと)
- 大神神社祭神に同じ。大国主命の和魂。水内神(健御名方富命彦神別神社祭神)の父神と伝えられる[1]。
- 相殿神
歴史
編集概史
編集創建は不詳。祭神・社名とも大和国の大神神社と同じで三輪系の神社であるが、その由来は定かでない。『善光寺縁起』には、大和三輪出身の三輪時丸が善光寺に参詣しそのまま当地に留まった、このとき大神神社の神体を奉納したので大神神社には神体がない、という伝説が記されている[1]。これはこの地に三輪氏系の人々が移住したことを示すとも解され、周辺には時丸の塚と称するものと時丸寺がある[1]。また、長野市信更町田野口にある松ノ山窯跡からは、堺市に存在する陶邑窯跡群と形態的・技術的類似性が認められる土器が出土しており(和泉陶邑窯編年で6世紀初頭と考えられているTK47型式(~MT15型式)に比定されている)、陶邑の窯は三輪氏の配下の渡来人が運営していたと考えられていることから、ここからも三輪氏が長野市に移住してきていた可能性が指摘されている[3][4]。
文献上は、貞観3年(861年)に相殿神の国業比売神に神階が授けられたという記述[5]が初出。
貞観8年(866年)には兵疾の災いを防ぐため、「三和神・神部神」への奉幣読経がなされており[6]、この地方の重要な神であったことがうかがわれる[1]。『延喜式神名帳』には「信濃国水内郡 美和神社」と記載され、式内社に列している。
旧称は「三輪神社」であったが、安永3年(1774年)に吉田家から許可を受け現在の「美和神社」に改称した[1]。寛政5年(1793年)、現在の社殿が造営された。
1873年(明治6年)、近代社格制度において村社に列し、1935年(昭和10年)に県社に昇格した。1986年(昭和61年)、献幣使参向神社に指定。
神階
編集境内
編集社殿は寛政5年(1793年)の再建。
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本殿の上屋
本殿は一間社流造。 -
拝殿
- 祝詞殿
- 社務所
摂末社
編集-
境内百末社石祠
境内境界の塀上に全国一宮を祀った石祠が並ぶ。俗に「百末社」と言われる。
祭事
編集現地情報
編集- 所在地
- 交通アクセス
脚注
編集- ^ a b c d e f 『日本の神々』美和神社項。
- ^ 「神部神」:境内掲示板。「神服部神」:『日本の神々』や『長野県の地名』美和神社項。
- ^ 溝口優樹『日本古代の地域と社会統合』(吉川弘文館、2015年)オンデマンド版、2024 ISBN 9784642746182
- ^ 桐原健『私の古代学ノート』(信毎書籍出版センター、1983年)
- ^ 『日本三代実録』貞観三年二月七日条。
- ^ 「神祇官奏言。信濃國水内郡三和。神部兩神。有忿怒之心。可致兵疾之。國司講師虔誠潔齋奉幣。并轉讀金剛般若經千卷。般若心經萬卷。以謝神怒。兼厭兵疾。」(『日本三代實録』全巻朝日新聞本[リンク切れ](J-TEXTS 日本文学電子図書館[リンク切れ]))。
参考文献
編集関連項目
編集- 他の善光寺七社
外部リンク
編集- 美和神社(全国善光寺会)