織田秀成
織田 秀成(おだ ひでなり)は、安土桃山時代の武将。織田信秀の八男(または九男)で[1]、織田信長の弟にあたる。津田姓を名乗り、津田 信成(つだ のぶなり)ともいわれる。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天正2年9月29日(1574年10月13日) |
別名 |
仮名:彦七郎、半左衛門 別名:津田信成 |
氏族 | 織田氏(津田氏) |
父母 | 父:織田信秀、母:不詳 |
兄弟 | 信広、信長、信行、信包、信治、信時、信興、秀孝、秀成、信照、長益、長利、お犬の方(佐治信方室→細川昭元室)、お市の方(浅井長政継室→柴田勝家室) |
生涯
編集兄の信長に早くから従って各地を転戦した。長島一向一揆以外の詳しい事績は不明[2][1]。
天正2年(1574年)7月の伊勢長島攻めにおいては信長の嫡男・信忠の供衆として従軍した(『信長公記』『信長記』)[3][1]。9月29日、一揆勢による捨て身の反撃を受け、戦死した(『信長公記』)[4][2]。秀成を討ったのは、一揆勢の鉄砲隊の者といわれる。年齢に関してはかなり若かったと推測される[1]。