織田杏斎
織田杏斎(おだ きょうさい)は明治時代の名古屋の画家。名は啓、字は子道、別号は緑天館。
織田 杏斎 | |
---|---|
生誕 |
織田 鎌吉 弘化2年11月24日(1845年12月22日) 尾張国愛知郡名古屋下茶屋町 |
死没 |
1912年(大正元年)11月24日 愛知県名古屋市中区本重町二丁目 |
墓地 | 平和公園正覚寺墓地 |
国籍 | 日本 |
教育 | 織田共樵、張晋斎 |
流派 | 南北合派 |
配偶者 | 乙女、すゑ |
受賞 | 第2回内国絵画共進会絵事功労褒賞 |
メモリアル | 筆塚(興正寺) |
生涯
編集弘化2年(1845年)11月24日、尾張国名古屋下茶屋町に絵師織田共樵の長男として生まれた[1]。文久2年(1862年)父が死去し、張晋斎に師事した[1]。
1874年(明治7年)下長者町に写真館を開いた[2]。1875年(明治8年)結婚し、下長者町四丁目に移った[1]。
1884年(明治17年)第二回内国絵画共進会で褒状[3]、絵事功労褒賞を得[4]、宮内省御用品に選ばれた[1]。1886年(明治19年)本重町二丁目に移った[1]。
明治43年(1910年)本重町一丁目に移った[1]。1911年(明治44年)11月病気を患い、1912年(大正元年)11月24日死去した[1]。
旅行歴
編集- 元治元年(1864年) - 近江国[1]
- 1877年(明治10年)5月 - 東京(山田百華堂、野崎久治同行)[1]
- 1882年(明治15年)10月 - 長野県木曽郡(中島有年同行)[1]
- 1886年(明治19年) - 伊勢地方(幸野楳嶺同行)[1]
- 1888年(明治21年) - 奥羽地方(木村金秋同行)[1]
- 1895年(明治28年) - 愛知県知多郡(鬼頭道恭、榊原文翠等同行)[1]
- 1898年(明治31年)4月 - 奈良県(青木竹涯、牧光葆同行)[1]
- 1900年(明治33年)11月 - 比叡山、京都、岡山、厳島、金刀比羅神社等[1]
- 1901年(明治34年)春 - 東京[1]
- 1901年(明治34年)秋 - 滋賀県永源寺(石河有隣、奥村石亭等同行)[1]
- 1902年(明治35年)7月 - 高野山、粉河寺等[1]
- 1903年(明治36年) - 天橋立、書写山等[1]
- 1903年(明治36年)8月 - 那智、新宮等(木村金秋同行)[1]
- 1904年(明治37年)8月秋 - 灘(森村宜稲同行)[1]
- 1905年(明治38年)1月 - 伊勢神宮[1]
- 1906年(明治39年) - 月ヶ瀬村(木村金秋同行)[1]
- 1906年(明治39年)4月 - 北陸、甲府、身延、富士川(石河有隣、木村金秋同行)[1]
- 1906年(明治39年)秋 - 京都、摂津国等(木村金秋同行)[1]
- 1907年(明治40年) - 富山、飛騨高山、中山七里等[1]
- 1908年(明治41年)夏 - 奈良、宇治、京都、丹波等(織田杏逸同行)[1]
作品
編集編著
編集受賞
編集役職
編集親族
編集脚注
編集参考文献
編集外部リンク
編集- 『杏斎翁遺墨帖 上』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『杏斎翁遺墨帖 下』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 織田杏斎 KYOSAI ODA
- 『幕末・明治の写真師』総覧